キャラ造形と絵の、しのびを突っ込んだ感じの話。
下の話と重複しますが、私は「ひとつのものを取得するのに数年単位」罹ることが結構あり(許容範囲になった、というだけで、決して出来ているとは思えないw)、以前は「目の大きい女子」がまったく描けませんでした。最低限理解しただろう、と思えるようになるまで、とりあえず5年くらいかかりました。
今でも目の大きい絵は苦手で、バランスがかなり難しいです。気を抜くと目の端が普通に「閉じ」て、眼球もちっちゃくなるんで…
たとえば都雲の造形は「自分的にチャレンジングな女子キャラ」なのですが、あの目のでかさや漫画的清楚系、睫の多さ(睫での描き分けは私の中になかった)、が挙げられます。どれも私がデザインで投入してこなかった要素です。こうした部分を投入したお陰で「自分のキャラなのに他人様が描きやすいらしい…!」という驚異的(笑)な結果に繋がっています…w。
しのびに関して言えば、こうした「それまで選択しなかった要素の摂取」を意識的に行っていますし、従来から確立したキャラ分類と自分なりのキャラ造形を意識的に組み合わせている部分は大きいです。
この点、与一、ニゴあたりは分かりやすい気がしますが…。
与一は誰が見てもイケメン美形で女子好きしやすい造形、ニゴは顔の造形ではなく雰囲気でイケメン(というのは語弊がありますがw)属性で男女とも取っつきやすい、みたいな。
市丸の「記号的に分かりやすいシルエットの割に顔のパーツが不明瞭」な感じはキャラ性と組み合わせた意図的なものなので、描きづらいと仰る方が多いのは「正解」なのかな、とも思ってますw(そしてこの作り方は、自分の普段の方法に近いです)。
ともあれ、他キャラにしても全体にそうですが、「自分がやらなかった、選択しなかった方法論」を意識的に採り入れるのは、難しいけど楽しいです。新しい発見もあるし。今でも記号部分に頼りすぎるのはどうかと思ってはいます。でも、伝達する方法論としては別に間違ってるわけじゃないし、使いどころとか取捨の問題だしなーと。
魔物の種族、たとえば外鬼に関してはもともと美形属性があるのですが、それ以上に「みんながどこか似た雰囲気」を心がけてます。その雰囲気は種族としてのものであり、血族というイメージ(実際に血のつながりがなくても)を強調してる…というか。そして、存在そのものの「解明されきらない何か」でもあるかなと。なんかよくわかんない、みたいな部分があって、それが共通で備わってる感じを出したいなーと。
……出るといいなぁと思いながら造形たり、描(書)いたりしています。いや、まぁ、絵的にはあんま描いてないですけど、まだw。
理想は高く、でも、出来ることからコツコツと。出来ることを着実に増やせたらいいなぁ。あんま自分を縛りすぎず、自由に、頑張っていきたいです。
そうしないと、描ける物も描けなくなってしまうので。
本当はもうちょっと考えていた事があるのですが、長くなったのでこの辺で。
今、結構使い分けをして描いているので、風邪の間そのへんで自分の絵の描き方についてとか、絵に関してダラダラ・漠然と・漫然と考えてました。
一般的とか当たり前、という部分もあるんですが、そこを自分なりに「自分に沿って」考えてみたと。
良し悪しの問題でもなく、これが間違ってる!正しい最強! みたいな主張でもなく…徒然と。
徒然すぎるせいで、いくつかの問題が一緒くたで語っちゃってる気はしますが、ご容赦をば。
特にオチはありません。
描く対象によって絵柄、というかディフォルメ具合を変更する・使い分ける、というのは多くのかたが結構やると思うんですが。
少なくとも自分はそうなんですけど、そのせいかよく絵柄が多いと言われます。そして、仕事柄それは役立っています(女性向け、青年向け、子供向け、カット、などで使い分けできるんで…)。
しかし、それは単純に「そういうスキルとして使い分けるか」という意識の問題だと私は思っています(ある程度絵が描ければ、技術はなんとでもなる筈…)。
二次創作をしているとそのへん、如実に使い分けてるんだなと思うのですが…
厳密に言えば「ディフォルメの具合」だけで、「絵柄」そのものは変わっていないと私自身は思って居るんですがw、まぁ面倒だから『絵柄』でいいですかね。
で。
一次でも二次でも、多分使い分ける理由は同じで、
・その描き方が作品に向いている、合っているから
なんだと思います。
今年は特撮で活動再開したので、特撮(ニチアサ)を例にとってみると、
・戦隊→ディフォルメが強い
・ライダー→そこまで強くない、リアルめ?
こんな感じで基本描き分けしてることに、今回改めて気が付きました。
もちろん、ネタ(漫画)を描くときは別ですが、イラスト的なものになった時、この違いが結構現れます。
この描き分け・使い分けは、元作品の雰囲気や方向性(ギャグやコメディという意味ではなく)をひっくるめて選択されてるなぁと、当たり前ですが再認識しました。そして、描き分けを行う際の圧縮・解体方法が多少違うのかな、とも。記号性を強調したものにするかどうか、の違い?
絵に関して、特撮は実写で「似顔絵的」側面がありますが、あんまりリアルにしないという気持ちもあります(その方がキャラの印象で受け取りやすいし、描く自分も気楽なのでw)。
似顔絵的とはいっても、「そっくり」だと微妙なんですよね。似顔絵の基本はよく「2割、3割増」みたいに言いますけど、同人活動だと更に「似せなく」している気がします。
特徴を抽出して、「いいところを数倍に」「役と役者さんの印象を数倍に引き延ばす」的な。
結果的には「印象としてはそれっぽいけど、似ているかどうかあんまわかんない」(笑)くらいにしてる、ような気がします。
結果としては「あんま似てない」かもしれないんですが、上記の工程を経ているかどうかで描く時に自分がブレなくなります。髪型や服装的部分を抽出した記号化より、顔・体型を意識して描いたほうがシルエットや「アップにした状態」でも描き分け、とか。
絵そのものより、雰囲気とか、気分的な問題かもですが…
とはいえ自分がどこまで描き分け出来ているか客観的な部分はわかりませんw。一応、意識としてはそんな感じです。
これはいちおう、オリジナル(しのびキャラ)でも同様です。
「輪郭や配置はほぼ同じで、パーツや色で描き分ける」というパターンもありますね。
この方法の良いところは「キャラの外観を作りやすい・描きやすい」という部分かな、感じています。言い換えれば「他人にも描ける、描きやすさ」でもあり、「統一性を感じやすい・見やすさがある」という事にも結果的に繋がるような気がしています。
一方、弱点としては
「作者や、作者が好きな人以外には見分けづらい」(共通認識がないと見分けづらい)
「アップなどでの描き分けを、見ている側が認識しづらい」
あたりでしょうか。
更に言うと「キャラカテゴリー」で造形し、描き分ける場合が多いので、下手すると男女差がなくなる場合も有り得るかなと(もっと根本的な「絵の描き分け」や、描き手の気遣いの問題でもありますが。「これは●●だ!」という思いこみは超必要だけど、思いこみを伝達する識別描写は描き手の気遣いと思いやりのような気がしますw)。
このタイプの描き分けって、「その作品や絵に慣れてる」とか「漫画やイラストを見慣れていて、絵を見分ける能力が備わってる」とかがないと識別しにくい場合もありますよね。
視認性というか、ある種の「読み手のお約束」共通項目・確認事項が成立していないと、その絵を苦手(見分けるのが)な人には「全部同じに見え」てしまう。
最近はそうでもないですが、よく少女漫画とか言われてましたよね。髪型はちょっと違うけど、キャラクターが全員同じに見える、みたいな…(とはいえ、これって「個人的な文化的背景」に依ってるので、実は今のように少女漫画の絵柄が男女共に吸収されてる時代にはあんま関係ないかもしれませんが…)。その昔、私が少女漫画読めなかった最大の理由が、内容以前にこうした絵の問題だったのも確かです(苦笑)。
ところで、二次創作というか、「二次元内のお約束要素が強い絵」を自分の絵に置き換えるのが、私は根本的に苦手です。前述のような方法で造形・構築されてる場合も多いので、自分の中でどう置き換えていいのかよく分からないというか…;。
だからかもしれませんが、二十代前半までは二次創作的なものには興味を示しませんでした。
(もうひとつは、作者至上主義者であるので、自分の絵で描く意味がわからなかった…というのもあります。最近は「好きのアプローチ」として描いていいんだ、という意識をもてるようになったのですが…好きな物を自分の絵で描く=汚す!みたいな感覚がちょっと強いんですよねw。)
なんだけど、その頃にハマった3D格闘のお陰で、自分の中での「二次創作」(というか、自分の絵に置き換える作業)が少しだけ出来るようになりました。
好きだから、という部分だけではなくて、二次元のお手本がない3D格闘や実写である特撮のほうが「俄然、やりやすかった」んですね。
恐らく、どう落とし込むか、とか、どうやって造形していくか、みたいな「骨格レベルの解体・再構築」的な作業工程が好き、なんだろうなぁと思います。リアルな絵を描いてるわけでもないのに偉そうですがw、解体〜再構築っていう手順を踏まないと描けないんだと思います。
自分自身、空間把握能力の問題とか、絵の志向性の問題もあるし、もともと流行っぽい絵をサクサク描けるわけでもなく、要領も悪いほうなので、非常に手間取ります。絵が噛み合うまで、下手すると数年単位でかかるのも当然、になります。(特に、極度の腰痛を患い、その後手の怪我、腱鞘炎で集中して絵を描けない時期が続いたので、益々どうしていいかよくわからなくなった……という個人的な背景、肉体・精神的問題もありましたが…。しのびを「リハビリ」と称しているのはまさにその部分です)
こうやりたい、という意識や理想(と言っていいでしょうが)が、どこまで結果に反映出来ているのかは分かりません。が、一応、タイプとしてはそういう方法論を使う、に分類されるかなとw。
それこそが、却って自分の絵や造形(デザイン)の弱いところ、かもしれません(印象は違うけど、シルエットが似る可能性が高いので)。瞬発力の問題もあるし、漫画的・アニメ的な省略になぜか向かわなかったので、手間取ることが多いです。一時期「まんが絵イラスト」を一切描かなくなったのも、記号性の高い絵=更に記号性の高い絵(漫画絵系のイラストを飛び越えてwアート系?に向かったというのか…?)、へ興味が向かったからかもしれません。
どちら方向にも偏りすぎず、真ん中あたりをうまく抽出していくのが一番いいようにも思うんですよねー。片方を極める、という志向性が自分がないので(コウモリ体質w)、自分が面白いと思った方向でどんどん変わっていけたらいいし、それでも一本線、筋が通っている絵になればいいなぁと。
ああ、骨格的にもちゃんと線(筋)の通っているのが良いですw(デッサン的な意味じゃなくてw)。
しかし、随所に滲み出る「自分への異様な縛り」の多さが心底ドエムっぽいですねw。なんて無駄に戒律的なんだ!という…w。自分が自分をいちばん許容(容認)できないから崩壊しちゃってたんですよね。自分で容認しないで誰が認めるんだってね!w
*放置していたバトン回答のファイル(掲載前に別ファイルで回答を書いてます)のうしろに書いていた内容なんですが、特に関係がないのでwこちらに一応格納。なので文章がブログ掲載っぽい感じになってますw。
2月コミティア前からどうもリアルで創作関連の事を話すことが多いです(そういえば映画好きの人とそういう話になることが多いなぁ)。
CXで日曜朝に放映している「ぼくらの時代」というトーク番組が結構好きなんですが、役者さんや監督さんが出てくるようなトークが面白いです。俳優さんもまた「キャラクターを創作(演じる上で)」しますよね。だからすごくおもしろいなーと。
監督さんの解釈や演出をとにかく忠実に、という場合もあるでしょうけど、役者さん自身でも作られますよね。履歴書タイプの方と、そのシーンだけ演じる切り取り型?の方とか(監督や脚本家の方も、作り方とかそのまま当てはまるとは思うのですが…)。
自分を振り返ると「履歴書型」とまでは言わないけど、客観的資料として各キャラ個人の歴史=履歴、は捉えています。これさえ決めておけばブレないかな、程度の指針が、勝手に決まるというか…。
性格他は大雑把にしか考えず、後から勝手にキャラが動いて「そう」と決まる感じです。そうなると、違和感なく勝手にいろんな事が決まって、あとは勝手に動きます。
正直自作キャラの性格とか人生観とか、あんまりわかってません。分析するのは好きwだけど、本当にそのキャラが「そう」なのかはよくわかりません。
だから勝手に動くようにしてます。そのほうが自分が面白いから。
お話として決まっている部分に沿わせますが。キャラ主導、なのかもしれないですね。
制御しきれていないので、話を書いていて不都合が出ることもあります。特に自分が設定する主人公はアグレッシブ・行動派ではない事が多いので(信念は持っていても前に出ないというか)…
「かさね」で伯爵が啼に対して下した「素直」という評価は、私自身も啼に対して感じています。彼はしのびとして勤勉で、非常に行動派なうえ、意外と素直な人で助かりますw。
「彼・彼女が歩んできた人生、歩めなかった人生」の中で、忍務とか役割とか魔物との関係とかもろもろをなんか描いていきたいなーとおもってるんだろうなぁ、と最近思います。
そこに強い思いがあるのかはわかりません。単に、にんじゃスキ! まものラブ! なだけ…ってのもありますしw。
嘘をたくさん描きたいです。だからこそ嘘が嘘らしくなるようにいっぱいいろんな事を調べなくちゃな、と思うのですが、なかなか思うようにいきません。
嘘を付くためには沢山の手順と手間が必要で、気が遠くなります。小説もですが、漫画をサクサク、気軽に描けないので、もっと気軽に描いてくればよかったなーと思います…そんなこと言うのも今更なのでw、自分の出来る範囲で地味に・地道にやってきたいです。
楽しんでくださる方がちょっとでもいたら嬉しいなあと思います。
自分はよく自分のやることを制限してしまいます。自己判断しすぎます。
それは客観視であると同時に逃避であり諦めであります。
いけないなあ と思って、このサイト、というか、しのびを始めました。
好きな物を声高に?主張する、という習慣が私にはなくて、それを表現するという習慣もあまりありませんでした。
やらなくてもいいんだけど、好きで描きたい物やどうしても作りたい物があるのに、なんの制限をかけるのかなあ、と自分で思います。
性格としか言いようが無いんですけど。
あんま制限しても自分が辛くなるばかりで(自分へのダメ出しが半端なさすぎて純粋な楽しみがなくなるw)しょうもないし、いいかげん大人なので、がまんしないでもいいんじゃないかなーと、自分を許容できるようになってきたのがこの数年です。
まあなんだ・・・犯罪おかさない限りは好きにやろうよ。みたいな。
小説を再び書こうと思えたのもしのびのおかげです。
漫画も絵も小説も「なんてだめなんだ…自分、死ねばいいのに…」って思います。でも、迷惑かけてない範囲で楽しめばいいかなと許容できるようになってきて、その鬱もwまた楽しむ余裕ができたのかもしれません。もともと歳を取ることには抵抗がないんですが、こういう気持ちが出来たのも年齢のお陰だし(遅いけど)、寿命をまっとうして安楽死できるよう、やりすぎない自制はしつつ、楽しんでいきたいなーと最近改めて思います。
……、最終回みたいな文章になってしまった……。初心忘れるべからずって自分に言い聞かせたかっただけなんですが!w
「2007/6/3 (Sun) 唐突だが狂気キャラについて考える」の修正加筆(文言がおかしかった部分などを訂正したりフォローする程度なんですが)をしていて、改めて考えた事があるのでそのへんのメモ。
なんだろ、キャラ設定するときに気を付けとこうって感じの超散漫メモ。
作品中の狂気キャラ(暴れ系を前提として)が、どういったタイプの暴力を司るのか、という事の根拠、あるいは執着を想定しているかどうかで、狂気キャラやそれに相当するキャラの「深み」(キャラ立ちと言い換えていいんでしょうけど)は変わってくるなーと。
それって至極当たり前なんだけど、案外忘れるような気もする。「コイツは狂気キャラで、そういうのが格好いいから」的に漫然としがちで。特にそのキャラが「悪人/敵」の場合は多い気がする。悪役は特にそうかな?(悪役だから!って事で)
でも、その前提から先に進まないとキャラ立ちしづらいんだよな、と、自戒を込めて思います。
その手段=暴力・もしくは痛みに縋っているのは何故か。ヤンデルのような「狂気の原因」ほど明瞭ではなくて、もっと直感的・直接的で、快楽的な衝動に近いものがあったからこそなのか。
殺人肉嗜好者が禁忌への快感と食欲(味覚)の充足を得るために人を殺す、みたいな、すごくシンプルなものでいい。
シンプルであるがゆえにドラマがある。そこが想定出来てるかどうか、で、キャラ自体、狂気の深みが全然違うよなーとか。
まあ、そんな部分は「描く必要」もなくて、ただ脳内で設定されているだけでいいんですけど(饒舌に語ることで「こわさ」や「違和感」は薄れるから)。裏設定で構わないんだけど、そのキャラがどういう人生を歩めたのか(歩めなかったのか)、という指針があれば、それだけで色々違う気がする。
ほんとね、悪役とかは「狂ってるから暴力的なんだよね」で済む話でもありますけどw。個人的にはそこらへんを考えるのが好きなので。
それと、何かしら「暴力」を描く上で、格好良さだけを求めたくない、と思うからかもしれません。暴力は何であっても「暴力」だからです。それが正義であっても、暴力は暴力です。その暴力を正義とする礎があるかないかで、力も正義になりますよね。そんな感じ。
狂気キャラや「暴力」って、ついつい格好いい気がして、手段と目的のすり替わりが非常に起こりやすいんだよなぁ…。
しのびだと、陰獣・外鬼の描写ってものすごく悩むんです。彼らは総じて「暴力的」なんだけど、その暴力は個々によってベクトルが違う。肉体的であったり、精神的であったり。……気を付けたいと思うのが「バイオレンスな外鬼、カコイイ!」にならないように、ていう部分ですw。
彼らは陰獣の一種族ですが、私の中で、ベクトルとしては「人間の進化系」的なイメージがあるんですね。実際には有り得ない進化系(だからこそ魔物というのか…)。寿命が長く、生命力が強く、能力が高い。ゆえに、暴力と快楽が同一線上に存在する、ような感じ。
とはいえ、根拠のない暴力性を持たせるだけでは「違う」んじゃないか、とか。単なる暇つぶし的なものと言うには執着しているし。その辺を延々考えていて、結局出てくるのが小説「かさね」からになってしまったんですが……w。
自身の暴力性を「痛み」で実感する場合もありますよね。そういう感覚を持ってる人を考えるのも面白い。ていうかしのびの某キャラがまさにそうなんだけど。
それでしか何かを確認できていない、というのも、ある種の狂気ではあると思う。そのへんはいずれキチンと描きたいです。
……描きたい物は沢山あるんですが。がんばろ。
いろいろ一緒くたでモンスター与太話。
MH(モンスターハンター)の場合のモンスターはある種、動物の延長ですよね。FF12の(11はやってないから知らない)場合もそういう感覚が世界の中にありますよね。
スペシャルなモンスター(吸血鬼・狼男等)も素敵ですが、そーいう世界の、生活の一部として存在するモンスターもすごく好きなんですよね…ゲームでいえば、所謂「雑魚モンスター」を含めて。
特別機より量産型のほうが好きな面もあるんで、雑魚好きとかも共通なのかも知れませんW。
そういえば、しのびで装束を考えようと思ったのも、制服というより量産型のイメージのほうが強いです。ああいった組織としては、スペシャルな一人を柱とするよりも、替わりの利く優秀な人材が頭数揃ってる方が俄然いいはずですから。天才が沢山いる(笑)より、秀才や努力型がたくさんいる方が組織としてはいいとおもう。抜きん出た才能はひとつのツールとしてうまく使わないとダメだっていうか。
話がずれました。
特撮ヒーロー作品のモンスターの場合はコンセプトによってデザインラインも変わりますし、デザイナーも大抵決まってるので(東映の場合は特に持ち回りというか)、自分の興味あるデザインじゃないと漫然と見てしまうんですが、半田KENTが主演だった「555(ファイズ)」の敵モンスターはコンセプト・デザイン共に好きです。
オルフェノクというモンスターは設定上、死から復活して「進化」した人間(大雑把だけどそんな感じ。オルフェから名前がとられていることでもわかりますが)なので、モンスターの状態ではグレートーンで表現されてて。死ぬ時は灰になる、青い炎を纏う、とかいちいちいい感じに詩的なんですよね。まあ子供からの支持が低い作品であることは間違いないでしょうが(苦笑)。
クウガのモンスター(グロンギ)がグロンギ語という独自の言語を使っていたり(役者さんも喋ってたそうですがw)、「種族」という事を押し出してる部分もすごく好きです。デザインは結構シンプルでストレートな怪人ですが、「原種」的な感じが結構好きです(原種だけど洗練された原種というのか、なんかそういう一定の完成形)。
以下は更に趣味の話になります。
私が今でもヘルレイザー1を好きな理由は色々あるんですが
・セノバイト(魔導師)が謎の「公正?」な存在であること
彼ら独自のルールに則った行動を取っているところ
・フランクおじさんの肉体蘇生の過程がすばらしい(骨→肉と再生していく)
・チャタラーの存在(まぁ初期4体はいずれもすばらしいですが…)
チャタだいすきチャタ!(1チャタがやっぱ一番いいとおもう)
チャタはのちのち美少年だったことが判明しますが、モンスター的に相当イケメンだと思います。
私の中で超イケメン。地獄で一緒に暮らしたい。
だから乙女心的に2の豚鼻はどうかと思うのであります(ぶたぱなぶたぱな!)。
チャタの最大のチャームポイントである口元、落ち着きのない動き…歯をカタカタ鳴らすという名前通り、しかも喋るキャラでもないんですが。顔潰れてるし。
顔あるけどなくて歯茎丸出しっていうのがたまらんのでしょうね。
ゲート・オブ・インフェルノで出てくるトルソーはペットらしいですが(胴体しかない)、あれもいいです(チャタービーストはペットじゃないのかな。なんなんだろう…)。
もちろんピンヘッドも超よいんですが…好みでいえばチャタ。
誤解を恐れずに言うなら、私は「皮膚のない肉体」がデザインとして非常に好きです。
実際には有り得ないんだけど「骨と筋肉だけ」とかそういう表現に弱い。おどろおどろしく作ろう!ていう感じとは違うんですけどね。なんかもっと突き放したところで。
筋繊維と骨(軟骨も)の関係性とか。究極の機能美、しかも未だ解明されない小宇宙。
人間は皮を剥いたら異形にしか見えない。
何が異形でおぞましいのか。
人間性(人が人であること)を含めて、異形はドラマチックです。
惹かれます。
しのびの世界観に、わたしのこうした「異形好き」観が詰まっていくと思います。まだ遠慮してる気がするけど…w。
ところで私、痛い映画は嫌いです(スプラッタ苦手)。え、モンスター映画の大半はスプラッタじゃないよ!
散漫ですが、熱意を込めて語ってみました。こういう価値観や鑑賞の仕方もあるという事でひとつ。
私は、無闇に「愛」を全面に押し出すというのは悪習以外の何物でもないと思っているのですが(本質的に愛がテーマである作品は別として)。
たいへんわかりやすい例で言うと、少女漫画の「愛があるからレイプOK」みたいな?w
まぁあれは、「性欲の激しさ(激しく求められる)」=「私のことそんなに好きなのね!」っていう恋愛魚眼変換みたいなもんがなんかあるんだろうと思うので(あとレイプとまでは言わないけど「乱暴されたい欲望」っていうの含めて)ドリームのひとつかなと思うんだけどね。でもドリームの手法的にはアダルト文庫系やハーレクインに近い気もする(少なくとも若い男の子の場合は性欲の方が勝ってるように思うけどなあ。やりたい盛りなんだからそんなもんじゃないの?だからあんまそこに「愛」を強調するのはいくないよねw。美しくまとめるより微笑ましいくらいのほうがいいと思うのですがw)。
穿った見方をしていると言われればそれまでですが、それにしてもやはり「愛」さえ言っておけばとりあえずおk、みたいな風潮はどうにも好きになれません。もちろん愛は根本に根ざしていたりもする、かもしれませんが。
たとえば武士道とかって愛以前の問題だったりするし、今だってそういうところはあるじゃない。忠義や大儀のために「死ぬ」(精神的・立場的に)人はいまだってたくさんいる。良し悪しの問題ではなくて、そういうもの、って感じ。
まぁそういうのの最たる者が私の中では忍者なんですけどね!(本題キタ!w)
長い前振りですんません…w。
いや、まぁ忍者関係の作品(映画「SHINOBI」は論外)で、ちょっと気に入らない?wキャッチを見かけたので、つい無関係なところにまで熱くなってしまいました…w。
忍者って刃の下に心があるくらいなので(笑)「滅私」、という精神が根本にあるように思っているわけです。そういう立場の人が苦しみながらも恋とか愛とかで密かに悩んだりひっそり想いを抱えているのが萌え…いや、激しく良さだったりすると認識しています!認識しているんです!だ、だからね!「愛する人のために闘う」的な言葉は忍文法的に些か間違ってると思うんですヨ!!(必死すぎ・笑)
もちろん、結果的にそれを含める事もあるとは思うんですが。
……だから何? って感じですよね。ええ、自分でも分かってます、ウザイ事くらい…。
いいよ、退いたっていい…!
個人的にはそういうのが萌ゆるのです。だからこそ、あんまり忍に愛をおおっぴらに語って欲しくないのです。忍びゆえに忍んで欲しいと切に願うのです。
まーね、SHINOBIの原作も主人公二人の恋愛が軸にありますが、あれは山風だから(暴論)。というか、あれはまさに「立場(忍務)>>愛」なので盛り上がるのですね。
いいですね! やっぱ忍はそうでないとね!!
自分の思いとはまったく別の処で生きていく、というのが「忍」モノの良さではないかなと思います。勝手に。
と、どんだけ人を退かせる気なのかわからないほどに熱心に忍者愛を語ったところで終わり。
高校時代、「ハムレット」にすっごいハマりました。
どのくらいハマったかといえば大学の進路を左右するくらいにはハマったわけですがw、このキャッチーな悲劇は分かりやすく言うとほんと萌え要素とか色々多い気がする。
私自身が萌えてるかどうかは別ですけどw。
今でも気になる作品のひとつです。
で、ハマった時期ってのは同様に寺山修司の天井桟敷がベースになってる「万有引力」という劇団にハマってましてw、その演劇繋がりで徐々にハムレットとかも(とはいえ、これ同時だった気もするので卵と鶏かもw)、それ関連でちょっと思いついた話。
とてもライトな方向なので深い突っ込みされると困るんでw、そのつもりでお願いしますw。
ハムレット自体は悲劇として有名ですが、よくよく考えるとどうにもアレな話ですね。いや、違うな。お話がどうこうというわけではなくて…なんだろう…
ある種の復讐劇であることは間違いないんだけど、それが前王の亡霊によって示唆された「父の謀殺」への復讐だったのか、ハムレット自身の「母の不義」に対する復讐だったのか、そのへんが面白いなと思うんです。
「いつまでも女であった母親」というものへの息子からの復讐というのが実は一番しっくりくる解釈のような気もする。
彼が自分の不幸から彼女を遠ざけようと言う意味合いで「尼寺へ」行け、とオフィーリアに言ったわけではなく、「女という生き物」に失望して八つ当たりしてる(笑)のもなきにしもあらず、だったんじゃないの。とかね。そういうのも込みで言ってたんじゃないのかなと昔から思ってて。
前王が偉大すぎるというのもハムレットの不幸だったと思うんだけど、これは単純に「すごい親だから」「色々やってたから」ってだけじゃないよね。
その生き方によって禍根を残しているのは寧ろ前王自身で、彼がすばらしい王であったかはこの際関係ない。それに巻き込まれたハムレットは被害者でもあり加害者でもあり。
男がマザコンなのはこの際仕方のない事だと思う(過度なのは問題があるけど、そうでなくてはならない、とも一方で思うw)けど、ハムレットの場合は母親への依存率がけっこう高かったんじゃないかな〜とか、いつも思う。現代でいうところのニートとその母親の構図に通じるものがあったかもしれないw。
寺山修司に「ある家族の血の起源」という戯曲(不思議オペレッタ。超イカス)があるんだけど、この中で母親は異質な存在として描かれていて興味深いです。詳細かくと内容のネタバレになってしまうんですが、まあ、興味あったらぐぐってみてください…
たしかに、母親だけがその「血」の中で外部に属するんですよね(現代に於いてその構造がどこまで有効かはさておき、一族という目線で見た場合)。
母親がなくては一族はなりたたないけど、常に外に繋がっている。
まったく当たり前のことなんだけど、ハッとさせられた覚えがあります。
なるほど母親ってのは家族ではあるけど異質なものには違いない。わたしたちは個であると同時に、常に血を背負っている事を思い出す、みたいな。
ちょっと時間なくなってきたので、中途半端ですがこのへんで。w
なぜかはわからないけど、唐突に「トニオ・クレーゲル」を思い出して本棚から引っ張り出してきた。
トーマス・マンの有名な作品なので読んでる方も多いと思いますが。新潮文庫だと「ヴェニスに死す」と一緒だし。
名作なのでネタバレもなにもないだろうという感じですがw、色々書くとネタバレになるので詳細は伏せます。しかしこの中盤のやりとりはいつ読んでもカッコいい。
そして、いつ読んでも痛々しい(笑)。
片付けられてしまったのです、と笑いながら去るところか、映像的にも(もちろん読んでいる最中の想像ですがw)非常に好きです。
何かを製作する場合に、底抜けに明るいものにかかわっていると、私はどんどん疲れて陰鬱になっていくことが多いです。いつでも、というわけではないですが……作品そのものがハッピーであるかどうか、とは別問題、それこそハッピーエンドとは関係ない次元の話。こういうのって私だけじゃないと思うんですが。
ダウナーなもののやさしさに比べ、アッパーなものはなんと無慈悲か!w
だが、そこがよさなのも事実。
あいかわらず話には特に落ちはありませんw。
先日から、別所で漫画・アニメなどの「狂気キャラ」について自分的に再度整理しはじめたら面白くなったので、備忘録として記しておこうかと。
いろいろ作品名が登場するかもしれませんが、ネタバレっぽくなるとこあるので、まぁ読まなくていいテキストです。
不足とかまちがい?とか認識不足とかいろいろあるし、私もあまりたくさんまんが他を読んでるほうじゃないので。
あくまでも主観での簡易カテゴライズと留意点、注意点など。
※このテキストで扱ってる「狂気キャラ」というのは、魅力的なキャラクターとして描くにはなにがどうなのか、みたいな整理だったりするので「狂気キャラ」そのものの分析というわけでもないです。
映画「シン・シティ」のめがね(ケビン)がすごい好きなんだけど、彼はわかりやすい狂気キャラというか、個人的に殺人狂のイメージとしては近年の中では相当いいシルエットだったなーと。けっこう典型的なんですけどね。
そんで実際シルエットばっかでビジュアルもすんごい地味だけどw(イライジャ樹の演じた役ではかなり好き)。
映画の中で、彼個人について作中で描くシーンが少ないのもすごくいい。狂気はそういうわけのわからんもののほうが怖いから(原作ではどうか知らないのですが…)。
いわゆる、イカレたかっこいい「狂気キャラ」は諸刃の剣というか、扱いが難しいですよね。出したい気持ちもわかるし、描きたくなる気持ちはもっと分かる。なにしろ「格好いい」からw。不愉快であることが格好いいっていうのは、ヤンキー的な「狭い世界」以外では根本的にリアルで「存在しない」ものだしw。
掘り下げると物語が生まれてしまう場合があるんだけど、現実ではなく虚構における狂気キャラの怖さとよさって
根拠のない悪意の具現
純粋狂気・純粋な悪意
みたいなものだと私は思っている(虚構ゆえに殺人狂であろうが「好きになれる」のであって、本来忌むべき犯罪者でこそあれかっこよくはないからね。これは至極当たり前だけど、忘れてはならんとおもう)。
いや、「純粋な狂気」って物語を作る人間には想像の範囲だから、本当の意味ではどうしても描けないとは思うんだけど(事実に敵うこともまずないし)。
いかれキャラは大きく分けて3つに分類されると思うのだが(もっと細分化されてるけど、複合型が多いのでここでは典型的なもので)、いかれ狂気キャラは根本的に(ひとつを除いて)
「知性がありコミュニケーションが取れ社会生活が営めている」
という前提に則って描かれる場合が多いので、そのカテゴリで。
まんが・アニメ等のキャラのパターンとして(わかると思いますが一応明記)。
ここで語ってるのは主に暴れキャラ(敵キャラ系?)かな?w ま、そんなニュアンスで受け取ってください。
で、分類おおきく3つ。
1:ヤンデル(便宜上そう呼んでみるw)
「根拠ある」狂気キャラ(病んだ人) 境界線上キャラ?
○○ゆえに狂気に走らざるを得なかった、
何かに「絶望」して狂気に陥った、など、何かしら
物語としての根拠が提示できる狂気を内包したキャラクター。
悲惨な体験や許しがたい経験がきっかけで極論に走って
結果的に「狂気行動」に移ったパターン
外的要因・世界に対して失望しているのだが
たとえ失望のきっかけが解決されても失ったものが多く
既に手遅れになってるパターンが多いのかな
クール系の切れキャラが実は二面性あってとかいうのは
こういうのも多い気がする(悲劇型?)
自己崩壊するのもこのタイプに多い
2:基地外(いやもう…w)
ナチュラルボーン基地外 境界線上というより彼岸側?
「目の覚めた彼岸側」という言い方出来るのかもね。
根拠がない、明示されないだけではなく
「もともとの資質がそうだった」としか考えられないタイプ。
ゆえに「生粋の基地外」というのがふさわしい
文化的側面ではない根源的部分で「常識」が歪んでいる
人間的に不自然さ・違和感を感じるタイプ
最終的に救われることなく終わるような気が
(そもそも世界に対して絶望してない?
自分自身に失望している場合はあるかも。
根本的に殺す以外では救いようがない、気がする)
3:オフィーリア型(※ハムレットの恋人)
壊れパターン:オフィーリアタイプ 完全に彼岸側
眠っている、という詩的表現もできそうw。
はっきりした原因があり、そのショックが大きくて精神崩壊
このパターンはキャラクター自体が作中で
ある種の神聖化・神格化されるパターンも多い。
物語の最終段階で精神が修復する場合もある(ハッピーエンド?)
バッドエンドでこうなる場合も(カミーユとか)
悲劇の犠牲者だが、物語的には被害者を生み出す装置になる
(自身が被害者になる場合も)
オフィーリアタイプの描き方については方々で何度も語ってるので色々思うことあるんですがw、まぁそこはおいといて。狂=聖の構図ははるか昔から行われてますね。
狂気に落ちることで「彼岸」と通じ、神秘的な存在に変化する。
私は、そういった構図が個人的にはあまり好きではないんですが(神格化しすぎているのと、私自身に宗教的背景がないからかな)、はかなく美しく見えるのもこのタイプで、絵面的に描きやすいかもしれない。
ただし安易に壊れキャラといってこのタイプを乱発するとけっこうめんどくさいことになる(ハッピーエンドで「精神が修復する」ことはまず難しいから、結局殺さないといけなくなったりして話が面倒な展開になったり必要以上に重くなったり…とか?w)。
オフィーリアタイプを完全に彼岸側だとすると、それ以外の2つは「自我崩壊」してないので、能動的狂気キャラって言えばいいのかな。
そんな2パターンの特徴?と問題点は
1:ヤンデルの場合
・ヤンデルのほうが描きやすい
・ドラマチックに物語を発展しやすい
・根本的に悲劇的な運命を背負ってることが多いので
(そうでない単なる悪人の場合もあるが)
実は…と狂気の根拠・原因が明かされた結果、キャラ人気が出やすい
(同人的解釈しやすいとか、描きやすいとかを含めて)
狂気に限らず、根拠があると思えるのは人間らしさを感じることが出来るので安心感がある、ということか。
2:基地外の場合
・「人間性が欠けているキャラ」そのものを構築し描くのが非常に難しい
ステロタイプな悪人との差異を出しづらく、チープになりがち
・そのため、たとえば破壊衝動が特化したただの暴れキャラに陥ってしまうこともある
(ある意味チンピラや噛ませ犬、チープな悪役で終わったり)
・理解しがたいキャラのため人気が出にくい?
まんまと描けた場合はハードでコアなファンがつく
基地外の場合は作家自体が観察眼や洞察力に優れていないと「ちゃんと描けない部類のキャラ」なんだろうなと思う。
だから「なんちゃって基地外キャラ(かませ犬)」だったり、結果的に「実は根拠あるヤンデルでした」になるパターンも多いような。行き過ぎて壊れてるんですよ、でも実はこんな過去があったんです、と提示するほうが描きやすく語りやすいからね。
あと、基地外キャラの難点?は、これが重要であればあるほど狂言回しとしての機能が強すぎて
・物語を破綻させかねない
可能性があること、かもなあ(作者がどこまで自覚して・意図的に描くか、によって変わってくるとは思うんですが)。
これは「物語の筋を決めてる・決めてない」とかいうレベルでの話ではなく、やはりこのタイプのキャラは暗喩・隠喩とでもいうか、他タイプのキャラクターに比べて内包する情報量が多いんじゃないでしょうか。存在自体がいらんことまで言及してしまったりする、シンボリックな存在でもあるんですよね。
ゆえに物語を膨らませたりするのだが、破綻してしまう可能性もあると。
あとはまぁ……、しくじると、ほんとギャグにしかならない場合もあるからなあw。
私は個人的に基地外キャラをうまいこと描きたいと思ってるのかな、話つくったりキャラ構成してるとどうもこういうキャラを必ず一人は想定している(それ以外は感覚的には普通の人が多い)。
あからさまにおかしな行動をしているという派手な狂気だけではなく、普段からいびつで「平穏」に存在する狂気も常に抱えている。その「狂ってる」ところが個性でもある、と。
個性というにはあまりにも破壊的・(世界に於いて)破綻的存在、ですが。
存在自体の違和感かなあ。
「異質な人」を使って描きたいものがあるのかもしれない。
「狂気」に関する本を色々読んだりするけど、やっぱ不思議だなあと思う。彼岸側の発想って人間的でどきりともするし、あまりにチープすぎて笑える。人間ってこんなに複雑なのに、なんて薄っぺらいんだろう、と思う事がある。(被害妄想にある、盗聴器やスパイ妄想とか含めて)
得体が知れないものは怖い。そしてそれはそれぞれみんな(自分も)が抱えてるものなんだという暗さがこわいんだろうな。
ところで、私の好きな映画にヘルレイザーなる有名なホラー作品があります。これに登場するセノバイトは一応「元は人間」なんですが、それに基づいた人間性が描かれず、超然とした、純粋な狂気の具現者として存在している1・2・5が非常にすきです。
彼らのルール内で行動し、そのルールは破らないというある種のストイックさにも痺れます(ストーカー気味ですがw)。
5はその点をよく咀嚼してすばらしく描いてますが、この監督は後に「エミリー・ローズ」を撮って、そこでも境界や彼岸の怖さを非常にうまく・美しく(怖く)表現しています。
セノバイトの「狂気が崇高さを帯びている」という構図は狂=聖に通じますね。(いろんな深読みコミでw。)
と、まぁ別にオチはないテキストで申し訳ないですが(結論を出すためのテキストでもなく、単に整理しているだけのメモ)。しょっちゅうこんな事考えてるのかって言われたら、考えてるかも知れないナーと思う今日この頃。