かさね


 重(かさね)が死んだ。
 死に様については、忍務に同行していた捌撃隊(はちげきたい)の谷七(やしち)から聞いた。
 まだ傷口は塞がらず発熱の続く状態だったが、谷七ははっきりした口調で重の死に際を語った。
 深手を負った彼は、二度と前線に赴くことは出来ないかもしれない。だが、それについては何も言わなかった。
 彼は生き残った。

 重と五条、そして啼は同世代のしのびだ。
 三人は伍隊に属していた。生まれた境遇も性格もそれぞれ異なったが、親友だった。
 奔放で器用な重、いつも朗らかで真面目な五条、物静かで内向的な啼。
 十五、六まで三人の能力にさしたる差はないように思えた。だがある時期を境に、重は突出した才能を現す。二十歳を過ぎる頃、五条も啼もそれぞれ優れたしのびとなったが、重ほどのしのびにはなれなかった。
 重は、何もかもが違っていた。嫉妬するのもばかばかしくなるほどに。

 重が死んだ。
 啼は自分に言い聞かせるように、その言葉を頭の中で繰り返していた。


 傘の柄を持ち直し、啼は視線を上げた。
 その年は六月の下旬になっても肌寒かった。なだらかに下る砂利道の真ん中にできた水たまりを避けながら、彼は垣根に紫陽花が並ぶ五条の家へ向かった。
 郷の中は鄙びた山村といった風情で、そこがしのびの郷だとはわからなかった。現代的な建物も見られるが、古い民家も多く存在する。変哲のない山間の村。よくある景色と特に変わりない。
 黒い傘は角を曲がり、郷の中央へ続く道に出る。道の少し先、右手には紫陽花が見えた。そこが目的地だ。
 五条は平屋の一戸建てに、妻と、見習いの若いしのびと共に住んでいる。五条が見習いのころ居候していた家屋を、住人だったしのびから受け継いたものだ。さほど珍しいことではない。
 紫陽花を横目に木戸を潜り、玄関先で傘を畳む。その間に玄関が開いた。
「お久しぶりです」
 少年の声に顔を上げる。五条の家に住む若い見習のしのびだ。
 いつも啼を出迎えるのは五条の妻だが、今日は外出しているという。差し出されたタオルで雨雫を軽く払いながら、啼は挨拶と礼を述べた。タオルを返すと、少年に促される前に家の中へ上がっていった。
「あの、まだ濡れてますけど…」
 少年は視線で肩のあたりを示した。白いシャツの肩は、薄暗いせいか濡れた部分が灰色に見える。
 啼は軽く首を振った。
「いいんだ、じきに乾くから」
 そういって廊下を歩きだした。
「隊長は書斎におられます」
 少年の声に、啼は軽く右手を挙げて答えた。


 この家は純和風の平屋だが、書斎だけは半端な洋間になっている。先代の持ち主が中途半端な改装をした結果なのだが、五条は気にすることなく、そのまま使っていた。
 客間の角を曲がった廊下の突きあたり。書斎に着くと、啼はなにも言わず襖を開ける。
 五条は窓の外を眺めていた。部屋の右奧にある机の前に座り、考え事をしているようだった。机の上には書類が広がっているが、片づいた様子はない。
 八畳ほどの室内は、以前と変わらず書籍や資料など大量の紙に占拠されている。五条は片付けのできる男だが、書斎だけはなぜか違っていた。
 啼は後ろ手に襖を閉め、本の山や資料を崩さないよう進む。部屋の真ん中にある座卓に乗ると、片膝を抱えた。これは啼の癖だった。
「雨の中呼びつけて悪かったな」
 視線を外に向けたまま五条は言う。
「いや」
 雨は降り続いていた。五条は立ち上がると窓を開け放つ。雨音と共に、湿気を含んだ冷たい空気が室内に充満した。庭の景色は長雨のせいか淀み、鮮やかに色づいた紫陽花が妙に浮き上がって見える。
 この二人が顔を合わせるのは久々だった。
 重の死から二十日。他の殉職したしのびと同様、重の葬儀も簡素に執り行われた。その時にも二人は顔を合わせたが、軽く会釈しただけだ。彼らは友人だが、役目が違う。
 徐に五条は口を開いた。
「しばらく、一〇番は欠員にしようと思うんだが」
 啼はぼんやりと眺めていた紫陽花から目を離すと、顔を上げて五条の顔を見た。浅黒く彫りの深い顔は、沈痛な面持ちで啼を見返す。五条もまた重の死を深く悼む者の一人だが、彼の役目が親友との想い出に浸る暇を与えなかった。
「そうか」
 啼は小さく頷く。
「そうだ」
 五条も頷いた。
 一〇番。その数字はいつからか、伍隊の中でも特に優れたしのびに与えられるものとなっていた。もちろん全ての一〇番がそうだった訳ではないが、重がその数字を与えられたのは優れていたからに他ならない。
 いまの子供達に、一〇番は重すぎる。重の後では特に。
 今後、重を越える者が現れるのか、それもわからないが。
「うん、妥当だと思う。誰も文句はないよ」
 重と比べるのは酷だよな―啼はぼんやりと思う。
 その言葉に、五条の表情は少し和らいだ。
「お前が同意してくれるってことは、俺の判断は間違ってないな」
 些か暢気にも聞こえる声で五条は続ける。
「本当のことを言えば、お前が一〇でもおかしくないと、俺は思ってるんだが」
 それまで何の感情も示さなかった啼の表情が、少しだけ動く。
「お前は、いつも誰かの影に隠れようとするだろう。重はちょうどいい相手だったよな。あと、たぶん俺も」五条は笑みを浮かべた。
「お前は本当に目立つことが嫌いだからな」
「冗談だろ。買いかぶりすぎだよ」いかにも困惑した様子で啼は溜息をつく。
 その姿に小さく笑いながら「まあ、そういうことにしておいてやるよ」と言い、五条は机に戻った。
 彼は居住まいを正すと、改めて啼を見た。
 重の死は、不幸な殉職ではない。ある種の「政治的」な意味合いも含んでいた。懲罰であると同時に、ただの殺し―私怨とも気紛れともつかぬ―でもあった。
「お前は勘がいいから、谷七の話で察しはついたと思うが」
 啼はその問いに答えなかったが、五条は構わず続けた。
「俺たちは、重の仇はとれない。いや、とることは決して許されない。わかるな」
「…仇をとろうなんて、考えもしなかったな」
 気が付かなかった、という様子で、啼は呟いた。
「だろうな」
 啼が考えない事を五条も承知していたが、敢えて言った。彼は続ける。
「重は―歪めはしたが、責任は果たしたと思う。谷七もな」
「協定上問題ないはずの、ちょっとの差じゃないか」
 啼は思わず口を挟んだ。五条は首を振る。
「その、ちょっと、が問題なんだ。捌撃隊の連中にはそれなりに算段があったんだ」言い聞かせるような口調。
 捌撃隊は谷七の所属する部隊だ。彼らは特殊な能力を有するためか、郷全体の意思とは別に、独自の考えを持つ事があった。
 啼もそれは感づいていたし、重の罪も認識している。それでも、どうしても納得できない事がある。「そんなの」
「重は死んだんだ。それじゃだめなのか」
 重の無邪気な笑顔を思い出した。
「それで許せないなんて、おかしい」
 そう言うと俯き、黙りこんだ。
 雨音が響く。五条は躯を小さく丸めた友人を見ながら、改めて思った。
 普段ほとんど感情を出さないが、啼はとても友情に厚い。感性は繊細で、すこし純粋すぎる。五条は時々、啼のそうした部分を子供のように感じる事すらあった。
 そんな啼だからこそ、五条は信頼できるのだ。
 重がそんなに間違った事をしたとは、五条にも思えなかった。彼もまた啼と同じように若いからかもしれないし、重をよく知るからかもしれない。もちろん、忍務を遂行する、という意味では決して許される事ではないのだが、納得できない気持ちがあった。
 むしろ、判断を誤ったのは自分たち幹部ではないのか。―それは、協定の話が出てから五条の中にある違和感だった。
 五条はゆっくりと口を開いた。
「俺は個人的にも、できるだけ静かに、すみやかに、残りの問題を解決したい。そして、それをお前に頼みたい―いや、お前以外には無理だと思う。重のためにも、どうしてもやって欲しい」
 啼は顔を上げる。薄い黄土色の目が五条を見据えた。
 五条は、少し微笑んでいるように見えた。
「もちろん、やるよな?」


一 章

 この世界は、陽光の恩恵を受ける者達だけのものではない。
 闇の中にも平等に世界は広がっている。
 郷の者達は、闇に馴染む者たちだ。彼らは「陰獣」――いわゆるあやかし・妖怪とも呼ばれる、人ならざるものたちの世界に深く関わっていた。人の世と陰獣たちの住処、どちらがどちらをも脅かす事ないよう。陰陽の均衡を保つこと、それは彼らの役目だ。
 彼らがなぜそのような役目を負うのかはわからない。彼ら特有の忍術―術式―が使えることも大きく関わっているのであろう。しのびという事を差し引いても郷者には謎が多く、彼らは他の流派からも畏れられている。
 彼ら郷者が一体何者に仕えているのか、知るものはほとんどいない。秘められた過去に何があるのか、彼ら自身が語ることもなかった。しかし、彼らは独自の方法で陰獣と語り、闘う事が出来る。そう知っていればいい。それが郷者というしのびだ。

 郷者の組織は大雑把に、ひとりの長老と、九人の隊長が統べる九の部隊によって構成されている。一から九の部隊の中でも実働隊となるのは、伍隊・捌撃隊・玖真隊の三つだが、特に伍隊はすべての基本となる部隊である。郷者特有の術式は使えないが、体術を基本とする最もしのびらしいしのび達の部隊だ。
 ある時、伍隊の隊長が病で急死した。唐突な死から一月後、隊長には副隊長ですらなかった五条が据えられることとなる。
 本来なら経験豊富な年長者が継ぐべき役職なのだが、五条の人を統べる能力は誰もが認めるところだった。その頃、ある事情から相応の年齢の者に適当な人材がいなかった事もあるが、それでもこれは異例の人事であった。
 二十八という若さで五条が隊長に赴任し、四年。
 その夏の終わり、郷の上層部にある重要な問題が持ち上がった。


 月に一度、隊長格と長老によって行われる定例の会議。その席で長老は言った。
「交配種を作る期日が迫った。鬼からは女を、郷からは男を」
 まるで人間のことではないように聞こえる言葉。それが『外鬼』との協定を示していると五条が悟るのに、少しの間が要った。
 張りつめた空気の中、変わらぬゆっくりした口調で長老は続ける。
「誰を選ぶかは任せる」
 顔の半分を多う黒い頭巾とその影で、長老の表情は読みとれない。
 長老は、『長老』という役目を負ってからずっと、顔を明かすことがなかった。
 だから、五条は長老の素顔や詳しい素性を知らない。今の長老がいつからその任に就いているかも。知っているのは、衣から出た皺だらけの手と、小さくてもやたら通る声。それで十分だった。
 その声だけが響く空間で、みな外鬼との『協定』を思い浮かべていた。
 誰も何も言わない。重苦しい沈黙の後に、長老は更に小さな声で言った。
「十年のうちに決行しなくてはならないのを、今日まで延ばしたのは私の責任だ」
 言葉とは裏腹に、声から感情を読みとることは出来なかった。
 長老にも後悔の念はあるのだろうか。五条にはそれすらわからなかった。


 郷者が「外来種」と呼ぶ陰獣がいる。
 「外来種」――土着のものでなく、この百年ほどで海を渡ってきた、いわば外国の陰獣達だ。
 もちろん、外国の陰獣は今までも存在した。渡ってきた個々の陰獣も少なくないし、土地に定着したものもいる。だが、そういった「平和的な」陰獣とは違い、明確な意志と目的、そして組織を持ち、人だけではなく土着の陰獣たちの脅威となりうる種族を示している。
 なかでも、血族の結びつきが強く、強大な組織を持つ種族は大きな脅威だった。不死の如き肉体と高い戦闘能力を持つ彼らは、陰獣だが姿形を含め、人との境界がとても曖昧だ。純血種であれば長身痩躯、均整のとれた外観に高い知性を備えている。まるである種の理想を体現しているようにも見えるが、彼らは欲望に忠実で、とても残忍だった。
 闇を自在に闊歩する陰獣達すらをも脅かす存在。彼らの血は陰獣を殺し、人を陰獣に変えてしまう。
 郷者は彼らを「外鬼」と呼んだ。遠方からの災厄。不治の病を患った、恐るべき血族。
 はじめ、郷者と外鬼は激しい対立関係にあった。外鬼はこの地の闇を侵し、土着の陰獣たちを蹂躙していった。郷者は均衡を保つためにも闘うことを選んだ。しかし、陽の世界でも活動する外鬼は簡単に排斥できる相手ではなく、外鬼にとっての郷者もまた同様に厄介な相手だった。
 戦いは激化した。双方に大きな損害と打撃をもたらし、長く続けば互いに消耗するだけだとそれぞれが認識した。
 だから彼らは「協定」を結ぶことでこの戦いに終止符を打ったのだ。
 平和的とは言い難いが、平穏のため彼らは協定を結び、それを守ることを選んだ。
 協定の中に「混血種」という項目がある。
 協定締結から十年のうちに一度「交配」し、混血種を作る、というものだ。
 それは郷者の提案で加えられた項目だった。本当のところ、外鬼も郷者も「混血種」など必要としていない。混血種は混乱を起こす火種であり、血統に重きを置く外鬼からすれば屈辱的な申し出に他ならない。
 しかし、彼らはこの申し出を受け入れた。自分たちの血統を暴く手がかりになるかもしれない事も承知した上で。
 郷者にとってもリスクの高い提案だった。思惑通りに進むとは考えにくいし、何よりも不確定要素が多すぎる。だが、どうしてもやらければならなかった。外鬼と「共存」するためには、彼らの情報を増やさなくてはいけない。
 決行まで十年かかったのは、様々な事情があったのも確かだが、お互い実行を躊躇っていたのかもしれない。
 それでも。この協定は守らねばならない。平穏のためにも、避けては通れないのだ。


 決行が決まってから、すべてが秘密裏に行われた。郷者と外鬼、どちらも、いつも以上に慎重に事を運んだ。
 郷者から提供する男の選定。年齢や健康状態、家族構成ほか、様々な要素を考慮した結果、二十七歳になる捌撃隊の谷七が候補となる。
 彼に決まったのは、捌撃隊の隊長が強く推したからだ。捌撃隊には独自の研究機関があり、捌撃隊の現隊長はその研究機関の出身だ。彼らの思惑が大きく働いているのは明白だったが、その件について五条は特に文句もなかった。なぜなら谷七は最も「適任」と思えたからだ。当時、恋人もなく、独り身だった谷七は親族も既になかったので、もし最悪の事態が起こっても、哀しみは最小限に抑えることが出来る。
 五条も郷者の幹部としてどういう選択をすべきか、一応理解していた。心情的にはどうあれ、この選択はさほど間違っていないはずだ。そうでなくてはならない、と。
 捌撃隊のやり方に苦言を呈するがいない訳ではなかった。谷七が問題なのではない、捌撃隊の研究機関に不信を抱いているのだろうが、同じく術式を司る部署・玖真隊(きゅうしんたい)の隊長が何も言わないので、結局他の者達は黙るしかなかった。
 そして、谷七も拒まなかった。
 隊長たちの集会所にもなる大きな館の最奧、長老の書斎に呼び出され、谷七は話を聞かされた。それが今まで命じられたどれよりも重要な忍務であることはすぐに理解した。当然のように、彼はなんの躊躇もなく引き受けた。
 忍務を拒否するなど、谷七に思いつくはずもないのだが。谷七も外鬼の脅威を知らぬ訳ではないが、彼には強い恐怖を感じるほどの記憶はなく、躊躇する理由にはならなかった。それに、外鬼に興味がないと言えば嘘になろう。
 郷者が提供する男は捌撃隊の谷七。そう決まった。


 五条は役目上、この時期の谷七と何度か話す機会があった。
 言葉遣いは多少乱暴だが、谷七は至って真面目で、想像していたより従順な気質だった。また、義に篤い印象を受けた。
 秋の初め。五条の自宅に呼び出された谷七は、やたらに散らかった書斎の片隅で、居心地悪そうにしていた。普段の五条の様子からは全く想像がつかない書斎に、些か戸惑っている様子だった。
「伍隊からひとり、護衛を出すことになった」
 五条は、戸惑っている谷七に気を配る様子もない。構わず続けた。
「なにかあったら、かならずその者を頼って欲しい」
 谷七は少し不思議そうな顔をした。 「最初から護衛が出ることは決まっていたんじゃ…」
「うん、まあ、それはそうだな」五条も頷く。「ただ、伍隊(うち)とは決まってなかったからな。玖真隊(きゅう)あたりが妥当って流れだったのを、色々とね」
 そう言って笑った。
 少し呆れたような、感心したような顔で谷七は五条を見直す。何か言いたそうだが、躊躇しているようだ。
「今は個人的に呼び出したからな。気にすることないぞ」
 五条の言葉に苦笑して、谷七は表情を緩めた。
「あんたがそんな、前に出ていく方だとは思わなかったよ。見くびってたな、悪い」
「若さ故の特権は、使えるときに使わないとなあ」
 五条が伍隊から護衛を出したかったのは、谷七に何かしてやれることはないのか、という心情的な部分も大きかった。自分が関わることで、少しでもこのことの方向を変えたかったのかもしれない。谷七だけではなく彼らは単なる素材ではないのだ、と。偽善的だろうか、とも思ったが、深く考えないことにした。後悔することになっても、何もしないよりはいいはずだ。
 五条は多くを語らなかった。谷七がどこまで五条の想いを理解したかはわからないが、それなりに納得しているようだった。
「でもよ」谷七は神妙な面持ちで溜息をつく。「護衛がつくっていうのも、なんだか気まずいよな」
 唐突な言葉に、五条はちょっと面食らった。「え? 何だって?」
「ええと、だから…」
 言い淀む谷七の姿に、五条はようやく気が付いた。
 身長は平均的、すらりとした体型。決して女受けしない顔という訳でもないが、どこか取っつきにくい雰囲気があった。また、正義感が強いせいで、少し喧嘩っ早いところもある。それに、目つきが鋭いので、普通の表情をしていても「怖い」と言われているかもしれない。
 そんな谷七には硬派という言葉がよく似合う。だからかはわからないが、彼は恋愛経験が豊富なほうでもなく、体を使う間者のような忍務を行うタイプでもなかった。
 彼にとって、今回の忍務に護衛がつくのは、かなり気恥ずかしいのだろう。
 五条はおかしくなった。
「それはまあ…そうかもな」
「おい、笑うなよ」
 微かに肩を震わせる五条の様子に、谷七は途端に不機嫌になる。「笑いたきゃ笑えよ」目にかかった前髪を掻き上げて、ふいとそっぽを向いた。
「うん、そうだな、すまん」
 笑いがおさまった後、五条は暢気な声で言った。
「なあ、谷七。いい相手だといいな。お前にとっては嫁さんみたいなもんだから」
 その発言に、谷七は驚いて振り返る。
「そういう言い方したのは、あんたがはじめてだよ」
 すこし面食らったようだったが、表情に不快感はなかった。
「だろうな」いかにも温厚そうな五条の笑顔に、少しの皮肉が滲む。「俺はまだ、道具みたいに扱えないんだ。口先だけも合わせればいいんだけどな」
 本心だった。谷七は言葉に詰まる。
「聞かなかったことにしとく」
 ようやく出てきたのは、そんなありきたりな言葉だった。谷七は自分の機転の利かなさに舌打ちする。五条はさして気にも留めていない様子で、「ありがとう」と言った。


 十月。協定に定められた「混血種」の項目が実施された。
 外鬼の女の元へ、郷者の男―谷七が通う、という形をとっていた。郷から遠い、大きな都市の一角に存在する外鬼・ザークシーズ卿の領地に、女の住まいがある。そこへ通うのだ。
 ザークシーズ卿はいかにも外鬼らしい美男子だ。金髪碧眼、長身痩躯――その外見に違わず、享楽的な男だった。彼は役立たずではなかったが、ほとんどの局面で役に立とうとはしない。非協力的な彼がその地位を脅かされないのは、戦士長のひとりである妹・ウルスラの功績とも言われている。もっとも、彼ら兄妹の仲は最悪だったが。
 多くのことに非協力的な彼が今回人材を提供したのは、小さな気紛れのように思えた。妹へのあてつけかもしれない。彼の行動原理は、そのくらい些末な事が多い。
 ザークシーズ卿の遠縁にあたる女は外鬼の純血種ではあったが、地位は低く、女中のような役目であったらしい。らしい、というのは、正確な情報を得ることが出来なかったからだ。女は外鬼が使う古い外国語を使い、この国の言葉はあまり理解していなかった。
 この領地へは、郷者は最低限しか入る事を許されなかった。選ばれた谷七と、五条が選んだ護衛。その二人だけだ。
 一月に一、二回。懐妊と分かるまで数ヶ月の間、谷七と護衛は女の元へ通った。
 その間何があったのか、正確なことは分からない。もちろん二人には報告の義務があり、外鬼に関して分かること、調べられることは可能な限り調べていた。
 だが、敵である彼らに敷地内での自由はない。谷七は最低限知り得た事柄があまりに僅かなので、些かもどかしい思いをしたが、それは護衛のしのびも同様だった。
 五条が選んだ護衛――重ですら。


二 章

 車が止まる。雨音に向けていた意識を現実に引き戻すと、指先の冷たさに気が付いた。後部座席の啼は顔を上げる。
 運転席の中年男は振り返り、「ここでいいのか?」と訊ねた。
 都市部でハイヤーの運転手をしているこの男は、数字こそないが、弾きと呼ばれるしのびの一人だった。肆研隊に所属している。忍務のとき、啼はたびたびこの男の世話になっていた。
 啼は軽く目をこすり、窓の外を見る。そこは、広大な庭園を南北に分ける一本道。止まったのはちょうど庭園の中央付近にあたり、木々の影が周囲を取り囲んでいた。
 車は街灯の下に止まっていた。雨の降り続く真夜中ということもあるだろうが、周囲には人どころか、生き物の気配がほとんど感じられない。
「うん、ここでいい。―どうもありがとう」
 街灯の灯りが啼のおぼろげな輪郭を浮き立たせる。そのぼんやりとした笑顔に、運転手は少し呆れたような口調で「暢気なもんだなあ」と呟いた。
「峰さん、おれがここに来たことは、ないしょだよ」
 その言葉に運転手・峰は苦笑する。「お前さんには借りがあるからなァ…」溜息混じりに漏らし、姿勢を元に戻した。
「明後日には連絡するから。その時はよろしく」言いながら、啼は黒い雨具のフードを被ると、ドアに手を掛ける。
「俺は、お前さんの死体の回収だけはしねえからな」
 前を向いたまま乱暴に言い放たれた言葉は、峰なりの気遣いだった。
 これから啼が向かおうとしている場所を考えれば、不安にならないほうがおかしいだろう。
 バックミラーに映る啼の目は、いつもと変わらなかった。啼の目は薄い黄土色をしていて、暗闇で光を受けるとまるで金色に見える。その目が笑った。
「たいした心配はないよ。まあ、ちょっと不愉快なだけかな」
 啼は、本気で何も起こらないと信じているようだった。峰の心配を理解していないわけではないが、なにか確証があるのか、平然としている。億劫そうな雰囲気すら感じられて、峰は感心を通り越して些か呆れた。
「知らねぇぞ、俺ぁ」
「連絡するよ」
 啼は車を降りる。扉が閉まると同時に、車は静かに走り去った。雨の中、遠ざかる車の音を聞きながら、啼は庭園へと向かっていった。


 その庭園は都会の中心にあった。今でこそ道路によって南北に分割されているが、広大なの敷地は「森」と呼べる存在感を放っている。
 そこはさる一族の私有地であった。何十年も前に、一族の邸宅して造られたものだが、庭園部分は十数年前より、特定の時間帯は一般に解放されていた。
 ここは、都会のオアシスとして機能している。
 公園は高く黒い柵で囲まれており、特に歴史的価値もある邸宅が建てられた北側は、入園の制限が細かく決められていた。制限を守らぬ者への罰則も厳しく定められている。
 啼は、その北側の庭園に侵入しようとしていた。彼は立ち止まり、柵を見上げる。確かに高さはあるが、柵そのものに特別な仕掛けはなく、警報装置の類すら見当たらない。
 ――さしずめ、陰陽の世界を分ける境界ってとこかな。
 啼はこの柵を結界のようなものだと感じた。この中には、外界と分かたれた世界があるのだ。
 だとしても、躊躇する理由にはならない。啼は柵に寄り添うように傾いた楠の枝を使い、簡単に柵を越えた。
 最初は木から木に移ろうかとも思ったが、先ほどより強くなった雨が啼の気配をかき消す。木から柵に移るとそのまま飛び降りた。音は降り続く雨に紛れた。
 啼としては、音よりも、雨で足跡が残ることのほうが気になった。だが、正式な忍務でなく、何より本気で隠れて行動しているわけでもない。
 まあ、なんとかなるだろう―啼はゴーグルを装着すると、すぐに歩き出した。
 園の中には想像以上の世界が広がっていた。
 そこはとても広かった。木々は鬱蒼と茂り、都会の一角だというのに、どこかの森に迷い込んだような感覚に陥る。
 だが、この森は自然の森ではない。よく見れば、人の手によって美しく、細かく整備されていることが分かる。すべてのものは、住人にとって心地の良い形に整えられていた。
 その予定調和はどこか不自然な気がした。啼は感心するよりも、その手の入り方に違和感を覚えていた。
 こういうのも、箱庭と言うんだろうな。
 木立を進みながら、啼は頭に入れた地図を確認していた。今いる地点よりも少し高台に目指す場所はあったが、そこにたどり着くにはもう暫くかかるだろう。近道かもしれないが、さすがに真ん中の平原を突っ切るわけにはいかない。
 今進んでいる道はなだらかな下り坂で、下りきると池のほとりに出るのだが、そこを少しだけ迂回する必要があった。池のほとりには小さな小屋があり、夜は警備員が常駐しているということだった。手短に、穏便に済ませるためにも、出来るだけ接触は避けたい。
 雨足が更に強まった。啼は池を少し迂回し、木々に隠れた脇の窪地をなるべく静かに進んだ。気配を消すだけでなく、細心の注意を払って。
 来た時と同じように、どこにも生き物の気配は感じられなかった。
 だが、それが大きな間違いだということに気付いたのは、丘に続くなだらかな斜面を上り始めた時だった。


 木々の影。闇と雨。雨は音をかき消すだけではなく、他の者より優れている啼の嗅覚をも鈍らせていた。
 ――けもののにおいがする。
 物音はまったくなく、気配も感じられなかった。草や雨のにおいに混ざって、かすかにけもののにおいがする。それも、かなり近い。
 ――まいったな。囲まれてる。
 数はさほど多くないようだが、完全に周囲を囲まれているようだ。
 それは啼らしくない失態だった。相手が気配を消す事に長けた闇のけものである事も理由のひとつだろうが、それ以上に、啼にはどうにも出来ない力がこの土地に働いている事が一番の理由のように思えた。
 ここは、啼の暮らす場所ではなく、闇の支配する場所なのだ。
 啼は脚を止めず、彼らに気付く前と同じ歩調で進む。
 けものは警戒しているものの、襲ってくる様子はなかった。啼の出方を待っている、といった方が正しいだろう。侵入者に対して、敵意より戸惑いの方が強いように感じられた。
 姿は見えないが、非常に統率の取れた動きをする彼らは、いわば「番犬」なのだろう。番犬なら操る者がいるはずだが、啼はその存在の片鱗すら確認することはできなかった。
 ……だが、なぜ、こんなところにいる?
 もし、彼らが啼の想像通りのけものだとすれば、闇のけものの中でも崇高な存在と呼ばれる種族だ。こんな場所でなぜ、やつらを守るのだろうか。
 予想が正しいか否かは別として、啼としてはすべてを、出来るだけ穏便に済ませたいと考えていた。もとより、ここではあまり隠れる気はない。戦闘さえ避けられれば、それでいいと思う。
 しかし、この場で戦意が無いことを示しても、何の解決にもならないと分かっていた。なぜなら彼ら闇のものたちは、力無き者を認めようとはしないからだ。自然界の掟は、そのまま闇の掟でもあった。そのことを啼はよく識っている。
 闇の中では、力無き者に慈悲はなく、弱い者は服従か死を選ぶ事となる。戦いを避けるためには、自らも強くあらねばならない。或いは、己の力を示し、相手に認めさせるしか方法はないだろう。
 啼はルートを変えることにした。その方が厄介もすぐに済む。それに、目的地にも近いはずだ。
 草原へと向かう。歩きながら啼は、雨具の内側の装備を確認した。ベルトの後ろにつけていた四角い革のケースを外し、左腕に装着する。
 視界が徐々に開けてくる。視界の先には一面の芝生が見えた。なだらかな坂になっているが、見晴らしの良い、なにもない平地。意志を示すだけなら、そこのほうがいい。
 啼を取り囲むけものの気配が一瞬消えた。啼は構わず森を出て歩き続ける。遮るものがなくなり、雨が容赦なく啼を打った。
 ごうごうという雨音しか聞こえない。
 急激ににおいが強まった。それは、けものが闘うときに発する特有のにおいだ。
 次の瞬間、啼は身を翻した。
 跳躍したそれは、頭上をかすめて啼の背後に着地した。そして、体勢を低く保ったまま啼を睨みつける。
「番犬というには立派すぎるね」
 顔を上げて周囲を見ると、思わず呟いた。
 それは、体長が一、五メートルはあろうかという狼だった。黒に銀の混ざったような毛並みは長く、目は銀色に輝いている。啼のはじめて見る狼だった。
 彼の想像通りであり、想像以上だった。
 闇のけものの中には、狼とそっくりなものたちがいる。彼らは神聖視されることが多く、特別に扱われた。実際闇のけものの中でも高い知能と精神性を持ち、ゆえに飼い慣らす事は非常に難しい。人間にとっては不可侵の存在とも言えた。
 しかし、同じ闇の種族同士なら、それも可能なのかもしれない。
 三頭の狼が、一定の距離をとりながら啼を取り囲んでいる。
 目の前の狼が低いうなり声を上げた。右と背後に一頭ずつ。目の前にいる狼は他の二頭に比べて少し小柄だが、他に比べて威圧感があった。群れのリーダーだろう。
 その狼が吠えた。と同時に、二頭の狼が飛びかかってきた。啼はそれを右に転がって避けるが、間髪入れずにリーダー格の狼が襲いかかってきた。啼は片膝をついたまま、左手に装着したケースから何かを引き出し、狼に向かって投げつけた。
 至近距離での攻撃を避けきることが出来ず、狼は小さな悲鳴を上げて着地すると、唸りながら啼から離れた。だが、戦意を失ってはいない。低いうなり声を上げていた。
 啼は立ち上がると、投げつけたものを手元に引き寄せる。それは平たい、紐のようなものだった。尖端には分銅がついている。紐はかなり長いらしく、小型のモーターで巻き取られる仕組みになっていた。
 それは、鎖鎌と同じ発想で制作された、試作段階の武器であった。小型で携帯しやすいが、絶対的な攻撃力や殺傷能力に劣り、使いこなすにはかなりの修練が要った。扱いの難しい武器であったが、啼は好んでこれを使う。
 先ほどの攻撃に虚を突かれたようだったが、狼たちはまだ武器がどんなものか理解していなかった。再び二頭が啼めがけて突進してきたが、それをすり抜けるように避ける。避けた瞬間、少し離れたところで構えていたリーダー格の狼に向かって再び攻撃を仕掛けた。
 狼は飛び退いて攻撃をかわす仕草を見せたが、それは出来なかった。紐が胴体に巻き付いた瞬間、啼は手を引いた。どうと大きな音を立てて、狼は地に落ちた。
 残りの二頭はうなり声を上げたが、攻撃を仕掛ける様子はなかった。彼らにとって、指示以上の事態が起こっているのかも知れない。
 啼は右手で紐をたぐりながら、周囲を見回す。どこかにこの狼たちを操る狼使いがいるはずだ。
「これ以上、戦う気はない」
 立ち上がり、大声で言った。
「おれはかくれ郷の者だ」
 啼は再び周囲を見回した。
 すると、雨音に紛れて、静かな足音が聞こえた。気配を消すことを辞めたのだろう。足音は森のほうから響いてくる。
 狼たちは唸るのを辞めた。地に伏した狼も立ち上がり、彼らの主人を待っているようだった。
 狼の視線を辿り、啼は振り返る。そこには、雨に濡れた一人の男がいた。黒い衣に身を包んだ男は、狼たちと同じ銀の目を持っていた。


 二頭の狼は現れた男が傍に来ると少しまとわりついてから、その背後にまわった。
 男は啼が倒した狼の傍らに跪くと、巻き付いた紐を外す。自由になった狼は大きく体を震わせてから、嬉しそうに男を仰ぎ見た。
 狼に怪我はないようだ。啼はほっとして、改めて男を観察する。
 身長は啼よりも少し低いが、体つきはずっと逞しい。啼より少し年上にしか見えないが、年老いた戦士のような存在感がある。実際の年齢は分からないが、啼よりずっと長く生きていることは確かだろう。
 男は屈んだまま、手にした啼の武器を眺めていたが、立ち上がって尖端を啼に差し出す。啼はそれを黙って受け取ると、武器を左腕のケースに格納した。
「やはり、郷の者か。面白いものを使うな」
 短い黒髪が雨に濡れ、銀に光る。この国の言葉を流暢に使っているが、風貌から国の者ではないことが分かる。しかし、男はどの国の者にも見えなかった。
 男は立ち上がると啼を見つめた。狼は彼の背後で耳を澄ましている。
 雨は容赦なく降り続いていたが、啼はゴーグルを外し、フードをとった。
「七九番、伍隊の啼だ」
 再びフードを被り、続けた。
「おれはある事情から、君たちの主・ザークシーズ卿に会いに来た」
「こんな時間に一人で、なぜ」
 間髪入れず、男は訊ねた。大きくはない声が、真っ直ぐに耳に届く。
「それは、おれの都合だ。でも、そのせいで君たちの手を煩わせてしまった。申し訳ない」
 その謝罪は些か意外だったらしく、男は少し目を見開いた。構わずに啼は続ける。
「おれは彼とかつて、ある約束を交わした。……面倒ついでで申し訳ないけど、内密に取り次いでくれないかな」
 そして、男の反応を待った。
 男はしばらく啼の顔を見つめていた。啼も男を見返す。嘘はついていない。真実を述べただけだ、と。
「その言葉に偽りはないな」
 男は、静かに問う。銀の目が発光しているように見えた。
「ない」
 啼は強く頷いた。
「誓えるな」
「ああ」
 短い問答であったが、確信するものがあったのだろう。男は決断した。
「すぐ会えるかはわからんが、約束は守られなければならない。お前の望みを叶えてやろう」
「ありがとう」
 啼は雨の中、狼に囲まれて男の後をついていった。


三 章 <前編>

 狼使いに連れられて啼が目的地に到着したのは、あれからすぐのことだった。遠くに見えていた筈の丘は目と鼻の先にあり、そこには啼の目指す大きな屋敷が構えている。
 これが本来の距離感なのだろうか――啼はぼんやりと思った。自分が実際に歩き、感じたほどにこの庭園全体は広くないのかも知れない。
 あの高い柵を越えた時点で、世界は一変した。
 ここが闇の力によって制御されていることは啼も肌で感じた。土地の所有者が特別な力で空間を操作しているのであれば、様々な不可解なことにも説明もつく。正規の手続きを踏まない侵入者を翻弄する事も容易であろう。
 大きな屋敷のまわりには一般人を立ち入らせないための柵があった。啼の頭より少し高い柵の向こう側には、横一列に植え込まれた薔薇と、目隠しのための植え込みがある。木の高さは柵と同じくらいだが、植え方が良いのか威圧感はなかった。
 それはいかにも西洋の庭園らしい豪奢さがあった。こういった庭園も美しいと思う反面、些か人工的で、啼はいつも居心地の悪さを感じてしまう。
 狼使いは柵沿いに、建物の裏手へと向かう。そこには使用人用の出入り口と思しき扉があり、内側には更に古めかしい木戸が構えていた。男は錠を外して木戸を開けると、狼を先に入れる。三頭の狼は軽い足取りで柵の中に消えた。啼も促されるままに入っていく。
 外から見るよりも、ずっと大きな屋敷が構えていた。左右対称の造りをした白い屋敷は、ところどころに大理石が使われているようだ。しかし全体としては簡素で清楚な雰囲気があり、どこか女性的な印象を与えた。制作者が細部にまでこだわった結果なのだろうが、素直に美しいと啼は感じた。
 屋敷の周囲も庭になっていて、遠くにテラスのようなものも見えるが、闇と雨ではっきりしたことは分からなかった。
 白い屋敷の横には石造りの小屋と、使用人用の住居らしき建物があった。白い壁に黒い屋根、簡素ではあるが、そちらもどことなく優美な印象がある。
 狼使いが扉を閉める間、啼は妙な感慨をもってその景色を見回していた。啼はここに初めて来たが、この場所を全く知らないわけではない。
 突然、狼使いが声を発した。
 それが外国語だろうとは判断出来たものの、啼には何と発音していたのかすら聞き取れなかった。あまりに聞き慣れない言語だった。
 その言葉で、男は狼に指示を出したていた。振り返ると、狼たちは男の声に従い、扉が開いたままになっている石造りの小屋へと向かっていく。狼たちは入り口あたりで体を震わせ、水滴をまき散らしていた。
 その姿を見届ける男の様子をまじまじと見ていて、啼は思わず
「詳しいことは知らないけど、君たちの種族は、もっと静かなところで暮らしているものだと思っていたよ」
 言い切った瞬間、彼は後悔した。余計な詮索をするつもりはなかったのに、と。
 男は、その後悔を見逃さなかったらしい。不愉快な顔をするでもなく、短く言った。
「私たちは、卿にとても大きな恩義がある」
 不躾な行動を咎めるわけでもなく、男は静かに答える。
 端的な言葉だったが、彼ら種族にとってそれがどれだけ重い意味を含むか、啼は理解していた。
「そうなのか。――ありがとう」
 敬意を持って接したいと思う相手には、自分が感じたように素直に接する。それが啼だったが、その素直さは再び狼使いを少し驚かせた。だが、驚きはすぐに消えた。
 何事もなかったかのように視線を戻し、「こっちだ」と言うと、闇の中を早足で歩き出した。


 啼は屋敷の横にある、使用人用の建物へと連れて行かれた。
 こちらは屋敷と異なり更に簡素な造りをしている。そして、外観だけでなく生活様式も完全に西洋のそれだった。
 靴履きのまま家の中を歩き回る事に抵抗を感じる啼は、外国の様式にはいつも戸惑いを覚える。だが、この建物の中ではあまり違和感を感じなかった。庭園といい、すべてが別世界として設えられた空間だからかもしれない。
 この古い建物が持つ独特の雰囲気、白い壁と焦茶色の床が、啼の気持ちを落ち着かせた。
 土間で雨具を脱ぎ、その後案内された小部屋で、啼は屋敷の主に会う為の身支度をさせられた。
 男が去るとほどなく、啼と同じか、少し若く見える華奢な女が現れた。黒髪、目は濃い灰色で銀でこそ無かったが、男とよく似た空気を纏っていた。彼らは同族なのだろう。
 女はタオルと着替え、それと湯気の立ったをカップを持ってきた。白いシャツに黒のズボン。正装とは言わないまでも、屋敷の主にはそれなりの格好で会え、という事なのだろうが、啼はそれをやんわりと断った。女も無理強いはしなかったので、彼は装束姿のままでいた。
 体を拭いて落ち着いたところで、女はカップを手渡してきた。受け取ってみると、それは暖めたミルクだった。蜂蜜の匂いがする。
 啼は礼を述べ、改めて女を見た。これはたぶん、ずぶ濡れだった啼に対する、彼女の気遣いなのだろう。
「これ、子供の頃に飲んだよ」
 そう言ってカップに口を付けた。懐かしい味がする。
 啼の様子を見守っていた女は、小さく笑うと「あなたは、私たちからしたら、まだほんの子供だわ」と言った。
 あやすような口調に、啼は思わず苦笑した。
「そう、そういうの――頭では分かっていても、いつもちょっと混乱する」
 素直な感想だった。人とは時の流れが異なる種族に相対すると、啼はいつも不思議な感覚に陥っていた。特に、人と見分けのつかない種族に対しては。
 彼らには独自の時間や世界があって、啼はそれを守るのも役目のひとつだと思っている。もちろん、お互いが干渉しすぎてはいけないのだが。
 啼が女にカップを返したとき、部屋の扉が開いた。
 狼使いが戻ってきたのだ。しかし、その印象は随分違っていた。
 白いシャツに黒のズボン、先ほど啼が渡されたのと同じような服装。もちろん正装でないだろうが、その姿は執事や秘書といったものを連想させる。とても、あの狼たちを手懐けている庭園の番人には見えない。
 女は狼使いと入れ違いで部屋を出ていったが、去り際に啼にそっと耳打ちした。
「あの方を、よろしくね」
 あの方――。
 啼は問うことも答えもしなかったが、小さな笑顔で彼女を見送った。
 そうして彼女が出ていった後、男は改めて啼の姿を見て、小さな溜息をついた。その様子に啼は一瞬だけ済まなさそうな顔をする。
「もしかして、君の主人が煩いのかな」
 装束のままでは嫌がるだろうな、とは啼も考えた。本当に、どうでもいい事に煩い男だから。
 狼使いはそれについて何も答えず、ただ「お前にはお前の流儀があるのだろう」と言って、啼を目で促した。


 その建物は地下の細い通路で屋敷と繋がっていた。倉庫のような部屋へと続く薄暗い階段を上り、古めかしい道具が多く積み重なった部屋を出るとそこは、全くの異世界だった。
 屋敷の内装はそのほとんどが白で構成されている。要所には金銀の塗装が施されているが、ささやかなものだった。壁に絵画の類はないが、大きな窓が目立った。また、所々に大きな鏡が設えられている。これらの大きな窓は額縁のような役目を果たし、鏡は光を反射するために設置されているように思えた。
 そのほかの装飾的なものといえば、百合を象ったランプシェードと、壁に描かれる百合の紋章だろうか。周囲を薔薇に囲まれていたが、この屋敷のモチーフは百合らしい。
 あとで分かったことだが、たしかにこの屋敷は百合がモチーフなのだが、ある特定の種類の百合しか植えないのだという。ゆえに、それが咲かない時期は、白い薔薇などが代わりに植えられる――ということだった。
 啼には様式など分からないが、非常に美しい建物だということは十分理解できた。屋敷の主人には良い印象を持っていない啼だが、趣味を少しだけ見直してしまった。
 屋敷の中は、全体が微妙に明るく、雨の降る夜中だというのに灯りは必要がなかった。灯されたランプは決して強い光を放っているわけではないが、暖かい色をした光が充満している。自分の影もうっすらとしていて、微妙に平衡感覚が失われる。現実と夢の境界に対する感覚が。
 中央の大きなエントランスを通り越し、奧へと進んでいく。啼が上がってきたのとちょうど逆あたりに位置する階段を昇り、二階の廊下に出る。いくつもの白い扉を通り越し、突き当たりの扉の前で狼使いは止まった。
「ここで待つようにとの指示だ」
 扉を開け、中に入るよう指示した。啼は頷いて室内に入っていく。
 四方の壁にかけられた百合のランプと全体を覆う灯りが、それまでの光以上に暖かく啼を迎えた。
 部屋はやはり真っ白だが、ここには窓がなかった。また入り口の扉の向かい側にはもうひとつの扉があり、奥の部屋へ続いているようだった。
 中央には、この屋敷の為に作られたらしい白いテーブルとソファが設えられている。だが啼はくつろぐ気にはなれなかった。
 座る気はなかったが、なんとなくソファに近付いた時だった。
 足音も、気配すらもなかったが、予感がした。入ってきた扉を振り返る。
 と同時に、白い扉が大きく開かれ、金色の髪が目に飛び込んできた。
「君がここに来る日が来るとはね!」
 はしゃいだような声。やけに楽しそうな様子で現れたのは、啼よりも長身の西洋人。彼は流暢にこの国の言葉を操った。
 ゆったりした白いシャツに濃い紺色のズボンという出で立ちは部屋着であろうが、素材はいかにも高級そうに見える。
 三十代後半くらいに見えるが、実際の年齢は分からない。知りたいとも思わなかった。
「久しぶりだね、啼。こんな夜分に、僕の館にようこそ」
 啼の目の前でわざとらしく一礼して、軽薄そうな笑みを浮かべる。
 館の主。啼が秘密裏に会いに来た者――外鬼のザークシーズ卿。
 彼こそが混血種の件で「人材」と「場所」を提供した人物だった。


三 章 <後編>

 長身痩躯、金髪碧眼。外鬼、特に男子は血が濃いほどこの特徴を持つのだが、ザークシーズはまさに「外鬼らしい」容姿をしていた。
 白い空間の中だからだろうか。肌は青白く病人のようだったが、彼自身は頗る活発であった。彼にとってはこの状態のほうが正常なのかもしれない。
「あれから謝罪のひとつもないのに、そんな表情でここに来るんだね……ずるいなあ、君は。郷や仲間のことしか考えてないのかい。なんて身勝手なんだ」
 その笑みは浮薄そのものだった。首を傾げた拍子に長い前髪が顔の右側を覆う。それでも、彼が心の底から楽しんでいると分かった。
「こんな時間に訪ねるなんて非常識だな。君、僕の都合はいつだってお構いなしだね」
 いかにも屋敷の主らしい振る舞いで一人がけの白いソファに腰を下ろした。啼にも横のソファに座るよう指示したが、啼は応じなかった。
 外鬼は、彼らが生まれた地の身分制度を現在も踏襲している。身分は血統によって与えられ、ザークシーズはなかなか高い位にあった。この館に住み、贅沢な暮らしが出来るのもそのためだ。
 通常、高位の者には管理職としての役割がある。財力は血族の維持に使われたり、私設の部隊を持つなど、ある程度の戦力を有するのが通例であった。だが、彼はそうした事柄には無頓着で、戦闘は専ら他人任せだ。強さに固執することもなく、政治的な野心を持っている風でもない。それゆえに狼使いが護衛にいる、という事すら意外に感じた。
 己の楽しみのためには些末なことにも腐心する男――啼はザークシーズをそう捉えている。だからこそ厄介なのだ。
 ザークシーズは改めて啼を観察しながら、長い脚を組み、些か呆れたような声で指摘した。
「僕に会いに来るんなら、もっとちゃんとした恰好をしておいで。何度も言うけど、僕はそれなりの地位にあるんだよ? まったく、戦士やしのびって連中は無粋でしょうがない」
 予想していた通りの反応に啼は呆れた。彼は一体、自分たちしのびに何を求めているのだろう。
「おれは、これが正装なんだ」
 本心を述べたが、相手は嫌味として受け取ったらしい。ザークシーズは「そんなの僕は認めないけどね」と嘲笑うと、「君は相変わらず自分の価値を分かってない」と付け加えた。
「僕はあまり戦士って人種に興味がない……が、君とは末永く付き合いたいと思ってるんだよ。君は郷のしのびの中でもかなり変わってるだろう? 見目もそこそこいいし、それに」
 言って、入ってきた扉のほうへと視線を移す。そこには例の狼使いが立っていた。今はザークシーズの護衛を務めている。
「ムーサとも気が合うようだね。珍しいんだよ、ムーサが初対面の相手に心を開くのは。興味深いじゃないか」
 狼使いはムーサというらしい。確かにこの狼使いには面倒をかけたが、自分に心を開いたとは思えなかった。
 むしろ、彼のような男が―いかなる理由があるにせよ―ザークシーズに忠義を尽くしていることの方が、啼には不思議でならない。
「ケモノ退治に飽きたら、僕のところにおいで。面倒見てあげるよ」
 先ほどまでとは違う人なつこい笑み。だが、啼は拒否するように顔を背けた。
「つれないなぁ」
 ザークシーズは目を細め、喉の奥で笑う。
 耳障りな音を払うように首を振って、啼は青い目を見据えた。
「いろいろと不躾で悪いが、先の約束を果たしてもらいに来た」
 約束、と口の中で反芻し、ザークシーズはソファに深く身を沈めながら「そうだね」と呟く。
「君が僕にとってひどい奴で、どんなに無礼であろうとも、僕は約束を守るよ」
 啼は、お互い様だろう、と心の中で吐き捨てた。
 二人が知り合ったのは偶然だが、啼にとっての不運はザークシーズに気に入られた事だった。陰獣に対して寛容な啼も、忍務であればこの外鬼と本気で対峙する。それも一度や二度ではない。だが、ザークシ−ズの態度は常に変わらない。
 啼は言った。「あなたはここにいる」
「ああ、そうだ。君はとても運がいいよ」
 頷き、顔を上げる。「だからこそ約束は果たさなければね。僕を何度も傷つけた君の話を聞こうか。――さあ、どうぞ」
 ザークシーズは人を逆上させる言葉を好んで使う。反応する必要はない。
 彼の言葉を無視し、素早く言った。
「協定、混血種の件であなたが把握していることを話してくれ」
 啼の冷たい視線に満足した様子で、ザークシーズは深く息を吸った。


「君はどうしてそんなに僕を嫌うかな……重はもっと慎重だったし、表向きとはいえ、僕に敬意すら払っていたよ」
 不意に重の名を出され、啼の目は微かに反応した。
「重は、かわいそうなことをしたね」憐れみなど微塵も感じていない口調で続ける。
「知っていること、か。……ああ、まったく君は運がいいな」
 繰り返される言葉。白く窓のない部屋の中は、激しく降り続く雨音が低く小さな雑音のように響いている。啼は自分の中の平衡感覚が崩れていくような気がして、息を吸い込んだ。
「ところで、谷七は元気かな」
 徐にザークシーズは言った。
「いや、元気なはずないな。ひどい怪我だっていうし……もしかして、死んだ?」
 啼が小さく首を振ると、ザークシーズはふうん、と、さして面白くなさそうな様子で続ける。
「そう。……いや、良かったか。重はともかく、谷七は結構面白いよね。素直で」
 彼にとって重は興味の対象外なのだろうか。啼の憮然とした様子を確認してから、ザークシーズはソファに身を沈めたまま、静かに語り出した。
「まず。僕が例の事件に関して知っているのは、重が殺されたこと、谷七が怪我したこと。把握している事実はその二つ。二人を襲撃した者については、僕より君の方が正確な情報を持ってるだろう。……聞いたんだろう、谷七から。谷七があいつを見間違うとも思わないしね……」
 忌々しげに言い捨て、小さな溜息をつく。彼は重を殺害した者が誰か、知っている。
 そしてまた、啼も知っていた。郷ではその名は伏せられていたが、啼は谷七、そして五条から密かに聞かされたのだ。
 しかし、啼には復讐心や強い憎悪は浮かばなかった。なぜかは分からないが、重がもう十分な役目を果たしたような気がしていた。一方ではそう感じる自分自身に戸惑い、啼はこのことについてあまり考えないようにしている。
 ザークシーズは続ける。
「つぎに――重がいつすり替わったのか、僕は知らない。……怒らないで欲しいが、僕にとって重は本当にどうでもいいしのびだった。もちろん、立ち居振る舞いも文句なく、戦士としても素晴らしいことはよく分かってる。だからこそ、重には機械の人形みたいな印象しかなくてね。出来すぎてるんだよ。彼には暴きたくなるような謎もないし、とにかく興味の湧かない相手だったな。
 それでも、最期に彼がしたことを、僕は誰よりも評価しているつもりだ。辛抱強い郷のしのびが忍務の最中に感情に支配されるなんて、まず有り得ないと思っていたからさ」
 そこで一旦言葉を切った。彼の視線は啼に向いているが、どこか遠くを見ていた。
「ともかく、あの頃の僕に興味があったのは、君たちしのびの血が混ざった一族がどうなるのか、って事だけだったよ。君たちにとって混血種は武器や脅威となるかもしれないが、僕たちからすれば人との混血が弱体化の一歩だということは、容易にわかるだろう? いままでも混血種がいなかったわけじゃないんだよ、人と本当の恋に堕ちてしまう、そういう血族もいたんだ、偶に」
 その言葉には幾分かの蔑みが含まれていた。彼にとって、人は玩具のようなものなのかもしれない。
「だけど、彼らの子供は不完全な事が多かったし、何よりも混血種の体は脆く、肉体的な欠損を持つことも多い。理由はわからないが、きっとバランスが悪いんだろうな。稀に特別な力を持つ者も現れるが、それが僕らに有効に働くことはほとんどない。だって、彼ら混血種の命はとても短い事が多いんだ。一瞬しか存在しない特別な力は、安定して供給されなければ混乱の元にしかならない……そういう存在を、一族としては認められないね。
 それに……啼、僕はね、人に属せず血族からも疎まれるって、生きるには随分不幸な境遇じゃないかと思うんだよ」
 完全に同調できるわけではないが、彼の言うことも理解できた。
「ある時から僕らは、暗黙の了解として混血を禁忌としていたが、なぜだと思う? 血族とその誇りを守るためだけじゃない、僕らなりの礼節だ」
 啼は思わず訊ねた。「なら、どうして」
 この協定について、啼はかねてから疑問を抱いていた。自然発生的に存在した混血種とは違い、この協定の混血種は互いへの牽制という以前に、ただの実験ではないか、と。啼がこの件で強く抱いたのは嫌悪感であった。
「……まあ、僕らにも好奇心があった、って事かな」
 ザークシーズは体を起こし、白い指先で啼を差した。
「君たち郷者はふつうの人とはまったく違う。君たちは血ではなく状況、環境で力を身に付けているだろう? 僕らのように血を重んじている訳ではない。僕たちとは力の発生が全く異なる。外的な力を内に取り込んでいるのに、なぜ君たちは闇に対して有効な術を使えるんだ? どうしてケモノ退治ができる? 海を渡ってきた僕たちと協定を結ぶまで追い詰める事が出来たのはどうしてだい? ……人なのに陰獣と渡り合える時点で、おおいに不思議じゃないか」
 この問いに答えられる者はほとんどいないだろう、と彼は思う。目の前にいるしのびが答えることはまず無理だ。もっとも、回答を得たとして、自分が納得できるとは彼も考えていない。
 謎というのは大抵そんなものだ。
 口を噤んだままの啼に微笑み、一度咳払いをした。
「浅慮としか言いようがない。協定のあの項目はね、互いにとって辛いものだったと僕は思う。とはいえ、これはこれで面白い。だから僕は名乗り出たんだ。いくら権力に影響するといっても、普通は血を穢されることを何よりも嫌がる。特に自分に近い血族を差し出すなんて抵抗があるしね…この件に関しては僕が適任だったと思うよ。だって、僕はヨアンナの、血族らしくないところがかわいそうだとずっと思っていたんだからね」
 ――ヨアンナ。
 啼がその名を聞くのは初めてだった。協定の子供を身篭ることになった外鬼の女の名前。なぜか、誰も口にしなかった。谷七、五条すらも啼に名を告げなかった。郷の誰もが、彼女をどう語るべきか分からなかったのかもしれない。
「強い意思表示はしないが、芯は強いし母性愛に溢れる気立てのいい娘だ。もっとも、あまり頭の回転がいい方ではないけど……だから、伴侶がいたほうがいいだろうとは考えていた。彼女は優しすぎて、どこか人に近くて……同族ではなく、君たちの誰かなら彼女の伴侶に適任だろうと判断したんだ。彼女を指名したのは僕なりの配慮なんだよ」
 ヨアンナはザークシーズの遠縁で、血族だが身分が低くこの館で働いていたという。彼がヨアンナの事をどこまで本気で考えていたかはわからない。神妙な口調だが、顔には下世話な好奇心が浮かんでいる。ザークシーズが自身の好奇心のために彼女を差し出した、という方が余程自然な気がして、強い嫌悪を感じたが、啼はそれを表情には出さなかった。
 啼が口を開こうとしたときだった。満面の笑みを浮かべ、ザークシーズは言った。
「残念ながら、僕の許にはもういないんだよ、ヨアンナ。ここにはいない」
 ここにはいない。
 予想はしていたが、この先の事を考え、啼は小さな溜息をついた。
 改めてザークシーズを見据え、啼は問う。
「今はどこに?」
「単刀直入だね。もうちょっと遠慮したらどうだい?」
「手短に、と最初に頼んだろう」
 啼は吐き捨てるように言った。
「おれは、それを知るために此処に来た」
 予想すらしていなかった、という表情。「そうか、そこまで詳しく君に教えるんだ、僕は」
「あなたはおれにそうする義務があるはずだ」
「まあ、たしかにそうかもしれないな」
 そう答えてはいるが、明らかに不満そうな様子だった。肝心なところになるといつもこうだ、と啼は心の中で悪態をつく。
 ザークシーズは少しの間視線を泳がせていたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「ねえ、啼。ここから先は約束以上の内容が増えるし、きっと僕は君にたくさんの協力をするだろう。でも、それは僕だけでなく、僕たち一族にとっても不利益な事かもしれない。……だから、僕と君の間で約束をしようじゃないか。それで手を打ってあげる。
 君は、僕のために何かしてくれるかい?」
 柔和な笑みを湛え、啼をじっと見つめた。
 それは、彼がとても美しい容姿をしていると否応なしに認識させられる笑みだったが、啼にはひどく不快なものに見えた。
 目を見据えたまま、啼は静かに答える。
「死ぬこと、殺すこと、郷を裏切ること。それ以外のある程度なら、やらないこともない」
 約束できる範囲は限られているが、それでも十分すぎる。
 途端、ザークシーズの目が輝いた。
「さすが決断が早いな。啼、今の言葉は本当だね?」
 念を押す。啼は小さく頷くと
「ああ、約束しよう」
 不本意だが、という言葉を心の中で付け加えた。
 満面の笑みを浮かべて、ザークシーズは扉の脇にいる狼使いを振り返った。
「聞いたね、ムーサ」
 狼使い・ムーサは表情ひとつ変えず、深く頷いた。彼は立会人というわけだ。
 思わず、啼は小さな溜息を漏らした。
 陰獣はしきたりや約束を非常に重んじるが、個別に交わされた約束は絶対的な効力を発揮する。それは実質的に契約と呼べるものであり、啼は今まさに、ザークシーズと契約したのだ。
 最初から、この契約のために遠回しに語り、愚図って見せたのかもしれない。だから厄介なのだ、この男は。
   それでも、啼は従うしかなかった。


「よし、いいだろう。――君に貸しが出来るとは、なかなか気分がいい」
 そう言って笑うザークシーズに、啼は釘を刺す。
「出来るだけ正確に。あなたは一族の中でも特別だろう」
 その言葉にザークシーズは眉根を上げ「へえ、そんなふうに評価してくれてたんだ」と言った。
「評価じゃない、事実を言ったまでだ。とにかく、出来るだけ手短に、正確に」
 ザークシーズは片手を上げて啼の言葉を制した。
「わかってるよ。適当なことをいうとすごく怒るからね、君」
 ふざけた様子を無視して、啼は無言で先を促した。ザークシーズは小さく肩を竦めると、改めて啼に向き直り、ようやく本題に入る。
「君が今ここにいるってことは、それなりに情報を集めて来たって事だよね」
「一応は」啼は答えた。「だが、今夜が戦士長の集いだ、ということくらいしか分からなかった」
 啼は素直に言った。戦士長は郷者でいえば各部隊の隊長であり、もっとも優れた戦士たちである。戦士長は武力を司る、文字通り戦士の長たる存在だ。
 そして、外鬼の要とも言える存在だった。
「へえ」ザークシーズは少し意外そうな顔をした。「会合って身内でも知らないやつが多いんだよ。結構な内緒事なのに、君には筒抜けなのか」
「知ったのは本当に偶然だ」
 諜報活動は啼の得意とするものだが、この件は外鬼の諜報を専門に行う、あるしのびから得た情報だった。そのしのびは単独で行動しているので所在がつかめないことが多い。啼が彼女に会えたのは幸運といってよかった。
「ふうん。まあ、そういうことにしてあげよう」
 言葉とは裏腹に、好奇心を一切隠そうとしない青い目。だが、彼はそれ以上追及せず、話を進めた。
「君も気付いたろうが、いまこの館へは、それなりの手続きを踏まないと入れないことになっている。普段、夜にムーサと狼たちに見回りを頼むようなこともないし、庭園にあんな術を使うこともないんだ。僕らにも負担だが、これは人にとってとても危険な事だからね……でも、今はまだ、あの時と同じままになっている」
 あの時――協定「混血種」の項目が開始された1年前のことだ。たとえ形式的であっても、厳戒態勢を布かなくてはならなかったことは容易に想像が付く。
「君は、この館にヨアンナがいる、と思ってたんだよね」
 ザークシーズの問いに、啼は「いや」と首を振る。
「分からなかった。だからここに来たんだ。移動した痕跡も情報も見つけられなかったが、あなたはとても用心深い。誰に対しても」
「そんな言い方……僕に信用がないのか、それとも評価されてるのか、わからないじゃないか」
 小さく舌打ちしたが、その表情は満足げだった。
「それで戦士長の動けない今夜、ってわけか。僕がこの館にいてよかったね」
 彼は肘掛に手をついた。
「ねえ、啼。君はうちの妹とは直接会ったことある?」
 悪名高い女戦士長ウルスラ。ザークシーズの妹だが、二人の仲は最悪と噂されている。啼は首を横に振った。
「それは良かった。出来れば、死ぬまで会わないほうがいいよ」
 大きく溜息をつくと、ザークシーズは不愉快な表情になった。
「こっちにも、君みたいに生真面目で、とてもお節介な男がいるんだよ……もちろん君とは違って、やっぱりちょっとおかしいとは思う。僕の一族って大抵どこかおかしいと思わないかい? あんまり長生きするとろくなことにならないよね」
 啼にしてみれば、ザークシーズこそがその代表という認識なのだが、彼自身にはあまり自覚がないようだった。
「そいつは、うちの妹と頗(すこぶ)る仲が悪い。妹と同等の力があって、しかも相当な権力を継ぐ立場にある。だから妹も簡単に手出しできる相手ではない、と。……そいつは重の死をひどく悼んでね。重が死んだ直後に、こっそりこの館に来た。そして、僕の許では危ないとかいって、彼女を浚っていっちゃったんだよねぇ」
 戦士長ウルスラが認める相手。話を聞く限りでは、外鬼にしては珍しく良識があるようだが、厄介な相手には違いない。
「重を随分と気に入っていたみたいだからね……色々、思うところがあったんじゃないかな。僕はあいつと重の死を悼む気もなかったから、詳しくは知らない。
 なんていうか、あいつは感傷的でロマンチストなんだよ。夢想家と言ってもいいだろうねえ」
 いつになく小馬鹿にした口調。彼の妹だけではなく、彼自身もその者を疎んじているようだった。
「今夜の会合でも混血種の話は出るだろう。もっとも戦士長には協定に関しての決定権はないけど。妹は僕と違って混血種に嫌悪しか感じていない。あいつは血に拘っているし、血を穢されることを嫌う。戦士長にはそういう考えのやつが多いから、奴らが実際に動くことはなくとも、基本は妹に協力的だろうね」
 外鬼同士の確執に巻き込まれるだろうと、ある程度は予想していた。だが、話が大きすぎる気がした。外鬼の戦士長といえば外鬼の中でも桁外れの戦闘力を持つ。もし複数と対峙するような事にでもなれば、啼が生きて帰れる保証はないだろう。
 この男だけでも厄介なのに、啀み合う戦士長二人が関わっているとは――啼は思わず舌打ちする。
「そう心配しなくていいよ。君は運がいいんだからね」
 ザークシーズは落ち着いた様子で、再びその言葉を口にした。
「どうして」
 宥めるような語調に、啼は僅かな苛立ちを覚えた。情報を後出しにしてこちらの様子を楽しんでいる、そんな回りくどさが神経に障る。
 啼の感情的な表情に満足した様子で、ザークシーズはゆっくりと語り出す。
「妹は近々この館に来るだろうが、ここにヨアンナはいないし、妹はどこにいるか把握していない筈だ。僕も今のところ、それを妹に言うつもりはない。場所が分かったとしても、ヨアンナは妹の嫌う男に保護されている。それも手出ししづらい相手の許に。僕の許にいるよりずっと安全じゃないか。
 あの男はね、僕らの中ではかなり珍しい平和主義者だ。重を気に入っていたからこそ、わざわざ苦手な妊婦を自分の許に連れ帰った。でも、あいつがヨアンナの子供を育てるとは考えにくい。おそらく、それなりの手続きが済むまでヨアンナが無事であれば、その後は彼女を郷に引き渡すつもりなんじゃないか? だから、君が彼の許から彼女を連れ出すのは、さほど難しい話じゃないだろう……たぶんね」
 その話が本当ならば、確かに啼はさほど苦労する必要はない。
「それはつまり――」
 瞬きを繰り返す啼。ザークシーズは歪んだ笑みを浮かべた。
「君は、きっとあいつに気に入られる。君は運がいい、と僕は何度も言ってるだろう」
 そう言って、ついに笑い出した。
 これは、彼の悪趣味な遊びだ。啼を暇つぶしに付き合わせ、新たな契約を結ぶ事も目的だっただろうが。
 くだらない。どこまでもくだらない――。啼は、怒りを通り越し呆れていた。
 ひとしきり笑った後で、ザークシーズは立ち上がると啼の傍らに立ち、その肩に手を乗せた。特殊な素材で出来た装束ごしでも、彼の手がいやに冷たい事が分かった。青い目が薄茶色の目を覗き込む。
「お詫びに、あいつの許まで送り届けてあげよう。でも、もしも妹に見つかったら、そこから先は君一人でなんとかするんだ。僕は戦士長たちと余計な諍いを起こしたくない」
 不本意ではあるが、この男の協力がなければヨアンナへは辿り着けない。啼がこの申し出に乗らざるを得ない事を、ザークシーズはよく心得ている。啼はザークシーズを睨み付けた。
「協力すると言っただろう……僕は約束を守る男だ」
「手短に、と言ったはずだ」抗議したところで、反省するはずもないが。
「重要な事を語るのに、多少長くかかるのは仕方のないことだよ。有益な情報がたくさんあった筈だ、たぶんね」
 そして、ザークシーズは顔を上げた。
「君を送るのは日が沈んでからにしよう」
 啼の肩から手を放すと、天を指差した。
「もうじき夜が明ける。陽の光がある間、僕らはその秩序を乱すことはない。たとえ君のためでも、それを変える気はないよ。それまで君は、この館で大人しくしているんだ。どんなに不満でも従いたまえ。いいな」
 多くの陰獣は陽の光を苦手としているが、ザークシーズの場合、それが弱点という訳でもないだろう。不満ではあるが、反論する気はなかった。
 啼が何も言わないので納得したと受取り、ザークシーズは満足げに頷いた。
 外鬼と郷者が微妙な時期、敵陣とも呼べる場所で動く。出来るだけ波風は立てず、目立たずに事を運びたかった。
 頼るべき相手がこの男しかいないのは心底不満だったが。
「ところで、啼」
 急に呼びかけられ、啼は顔を上げた。
「それはそれとして、館の中では僕に従って欲しいんだが」
 あまりに唐突な言葉に、啼は一瞬何を言われたのか分からなかった。
 ぽかんとした表情でザークシーズを見つめていたが、意味を理解した途端、露骨にうんざりした表情をする。
「……こんな時に、なにを」
「館の主が誰か分かってるんだろう」
 言葉を遮られ、啼は深い溜息をつく。そんなことまで従うと言った覚えはない。笑みを浮かべる男を睨んだ。
「ああ、また。まったく、僕のことを嫌いすぎだ。ちょっとは感謝しようよ」
 啼はふと、今回のことはこの男の筋書き通りに進んでいるのではないか、と思った。どこからが彼のゲームかは分からない。ザークシーズはすべてを制御してはいないが、最初から何かが起こる事を期待していたはずだ。そのために駒を用意し、成り行きを傍観している。そんな気がしたのだ。
 そうだとしても、啼はやらなければならなかった。重のためにも。


四 章

 ザークシーズが客間を出た頃、外鬼の戦士長たちの会合も終了した。
 戦士長は曲者揃いで、気性の荒い者もいる。だが会合の時は中世の騎士さながらに振る舞うのだった。それはウルスラといえども同様で、彼女はいかに詰まらない会合であっても文句一つ言わず参加していた。会合には、彼らが決して逆らうことが出来ず、かつ、最も尊敬する者が出席するからだ。
 会合の行われる夜、誰も報せなくとも、彼はひとりの侍従を連れて現れた。肩の下まで伸びた髪は白く、皮膚に刻まれた皺の数は彼が生きてきた年月の長さを物語る。蒼い双眸から考えを読みとることは出来ない。彼は部屋の隅に座って戦士長たちを見守っているだけだが、それで充分だった。
 定期の会合といっても、内容は近況の報告がほとんどで、特別な議題はなかった。それでも、混血種と重の件については少しだけ触れられた。議長を務める戦士長が改めて事のあらましを伝える。ザークシーズの名が挙がったとき、ウルスラは僅かに眉を顰めた。
 議長はこの件について、政治的な意味合いで「慎重に行動するよう」各に促した。
 誰も発言しなかったが、背後で見守る彼は小さな笑みを作った。その表情は、丁度向かい側にいたウルスラの視界に入る。彼女は目線だけ彼の方へ向けると、それに気付いた彼も片目を瞑って応えた。声は発しないが、「慎重にね」と口を動かしている。彼は愉快そうに見えた。
 それが合図だったかのように、会合は締めくくりに入っていた。彼は立ち上がり、侍従と共に退室した。それは実質的な会合の終了を意味している。
 その時、ウルスラはひとつの思いを抱いていた。混血種の件は彼女にとって唾棄すべき現実であったが、重の死によって何かが終わったような気がしていた。正確には彼女の「気が済んだ」だけだったが、それで十分な筈だった。
 自分たち戦士長には協定に関与する権利がない。彼女自身にとってはどうでも良かったが、協定の重要さは理解している。血族のために守らねばならぬ事柄だと。
 だが、と彼女は思う。
 ――まあ、何事にも事故はつきものだ。
 ザークシーズとウルスラは血を分けた兄妹だが、二人の確執は救いようがないほど深い。
 それでも、彼らの性質はとてもよく似ている。


 窓のない部屋の奧には、寝室があった。
 白く四角い部屋。片隅には大きなベッドがひとつあり、飴色のカバーがかかっていた。その脇の棚と椅子も白が基調で、例の百合の紋章が一部に施されている。淡い光を放つベッド脇のランプシェードはやはり百合の形をしていた。
 寝室にも窓はなく、音は壁に染みるように消える。
「君が起きる頃にはムーサをここに寄越すよ、一緒に食事でもしよう。遅い昼食になるだろうけど、構わないよね?」
 寝室で休むよう指示して、ザークシーズは姿を消した。
 外からは見えず、廊下からはどの扉がこの客間の入り口かわからない。そのような術をかけてあるのだろう。この部屋に案内したのは、彼の妹や他の外鬼から啼を守る為ではなく、啼を拘束する為に他ならない。
 「館の中では従え」とザークシーズは言い、啼は渋々承諾した。
 全く気にくわない相手だが、啼はどこかで彼を信用している。彼は交わした約束を決して破らないし、戦闘的な意味合いでの不意打ちは決してしなかった。それは彼の美学ではなく、単に玩具としての啼を大切にしている故の行動なのだが。
 啼はそのことを承知していた。気に入らないが、事実だ。
 一人になった啼は暫くの間、ソファの背に手を掛けて思案していたが、視線を上げると寝室へ向かった。扉を閉め、大きく息を吐くとベッドの端に腰を下ろす。
 啼は指示通り休むことにした。勿論、これが忍務の最中であれば有り得ない事なのだが。
 郷を出てから十日近く経ったが、啼はその間、ろくに眠っていなかった。外鬼の情報収集は啼でも苦労した。外鬼は他の陰獣と小競り合いを繰り返しており、巻き込まれれば命にも関わるだろう。危ない場面もあったが、結果的には何事もなくこの場所にいる。
 五条がこの件を啼に頼んだのは、なにも友人だから、いう理由だけではなかった。啼でなければ務まらないと判断したからだ。
 啼は、そう評価されるだけのことはしている。だが、彼自身は決して自分を認めようとしない。
 同じ伍隊のしのびであれば、大抵の事は務まる。自分のかわりはいくらでもいる――郷者の持つ数字はその象徴。重の一〇も啼の七九も大差ない。背負う数字に優劣はなく、その重みは命の軽さを表す。郷で育ち、郷者として生きていく事に一切の疑問はない。死ぬことも。
 彼の頭には常にその想いがあった。間違ってないだろうが、些か極端と言えた。
 啼には、他の誰もが自分よりもずっと尊い存在のような感覚がある。彼は目立つ事はなるべく避けようとするし、時折、自分の存在を空気のように消してしまいたいと感じていた。五条が指摘した通り、啼は影に隠れるためなら、自覚しなくとも自分を制御している。
 ――……重はとても優れていて、おれとは比較にならない。おれが一番分かっている。
 ならば、なぜ重が「役目を果たした」と感じるのか。
 装束を解いてベッドに横たわった啼は、薄闇の中で考える事を辞めた。眠れない時でも眠る為の方法は知っている。
 今の啼には、深い眠りが必要だった。


 啼は夢を見た。断片的な記憶しか残らず、夢の詳細は覚えていない。
 目覚めは爽やかとは言えなかったが、不快でもなかった。寝起きでも頭はしっかりしている。それまでの疲れを考えれば十分すぎるほどの回復なのだが、啼は、眠ったことを少しだけ後悔した。
 夢が、夢であった、という自信が持てなかった。ここがザークシーズの館でなければ、いかに現実的な夢であっても、素直に夢だと言えただろうが――。
 外鬼すべてがザークシーズのように特別な「術」を使えるわけではない。魔導に精通し、魔術を使う者は魔術師であり、陰獣の使う術とは発生も理も異なる。陰獣でありながら魔導を極めようとするザークシーズは稀な存在だった。
 それは、彼が気儘に振る舞っても許される最大の理由と思われる。その風体に似つかわしくないが、彼は恐るべき種族の中でも、とりわけ危険なけものだった。

 啼が半身を起こしたとき、扉の向こう側で小さな物音がした。館の中ですらなるべく気配を殺して歩く様子から、例の狼使い・ムーサだとわかる。
「すごい勘だな」
 彼が扉を叩く前に、啼は呼びかけた。「ついさっき起きたばかりなのに」
 その声に応じるように扉が開いた。黒髪、銀の瞳。昨晩啼が断った着替え一式を手に、夜と同じ姿のムーサが静かに現れた。
「支度しろ。伯爵が待っている」
 秘書や執事としてなら、この口調は失格だろうな。啼はそんな事を考えて苦笑した。
「……やっぱり、そっちじゃないとだめなのか」
 ムーサは無言で頷いた。啼は立ち上がる。
「事情はともかく、きみはあいつのそういう部分によく付き合えるね」
 うんざりした様子で言って、ムーサから着替えを受け取った。ムーサは表情ひとつ変えず、静かに「慣れだ」と言った。
「なるほど。おれには無理だな」
 隣室の扉へと歩くムーサの背中から目を移し、啼は装束を見る。だが、諦めたように指定の服に着替え始めた。


 身支度を整えた啼が案内されたのは、一階の奧にある食堂だった。といっても会食用の大きな部屋ではなく、こぢんまりとしたものだ。ここも他の部屋と同じく白いのだが、部屋の中央を占拠するテーブルや椅子は焦茶色の年代物で、屋敷に合わせて作られたものではなかった。これらも華美な装飾はなく、寧ろ無骨な雰囲気すらある。今の主人が異国から持ち込んだものだろう。
 部屋の大きな窓からは庭がよく見えるが、降りしきる雨で景色は滲んでいた。室内は薄ぼんやりとして、明るいとは言い難い。すべてが蒼い影を作っている。
 ザークシーズは彼の定位置らしい窓に一番近い場所で、庭を向いて座っていた。細身の黒いズボンと白いシャツ、その上に羽織った黒い薄手のガウン。服のせいか昨夜よりも更に、病人のように見えた。この男も眠るのだろうか――啼はふと思った。
「しのびのくせに、あんなによく眠るなんて。なんだかんだいっても、僕を信用しているところが、君の良さだな」
 窓の外を見たままザークシーズは言った。昨夜と変わらない、愉しそうな、神経に障る声。
「やっぱり似合うじゃないか、そういう格好の方が」
 そう言うと立ち上がり、振り返って啼を眺めた。「従順なところも良さかな」
 啼は憮然とした表情で、ムーサに促されるままザークシーズの向かい側に着席する。ムーサは主人の側にまわり、椅子の向きを直す。主人が落ち着いたと判断すると、一礼して退室した。
 座り直したザークシーズは、改めて啼に微笑みかけた。
「僕はこの館に、自分の気に入ったものしか置かないようにしている。君がここで働いてくれれば、僕としては最高なんだが」
「有り得ない」
 不快感を隠さない表情で啼は即答した。ザークシーズは喉の奥で笑っている。
 その後、彼らはザークシーズの「いつもどおり」の昼食を採った。給仕もムーサが行っていて、彼は用が済むとすぐにいなくなる。食事中、特に会話があるわけではないが、ザークシーズは相変わらず楽しそうにしていた。
 病人のような風体をしたこの男が、想像以上によく食べるので啼は少し驚いた。啼の視線に気付いたザークシーズは、「僕はあらゆる食事を愉しむようにしているんだよ」と笑う。
 食事が終わる頃、彼はこう言った。
「僕らは、基本的に食欲旺盛なんだ。根元的な欲求に従順に出来てる」
 外鬼の貪欲さはよく知っている。啼は呆れたように小さく息を付いたが、一向に気にする様子はない。腹立たしいまでの笑顔で続ける。
「啼、君はもっと人生を愉しんだ方がいい。……残念だよ。啼、君が制御出来るのか、しのびが皆そうなのか」
 唐突な言葉に、啼は顔を上げた。
 ザークシーズは悪びれた様子もなく、ただ笑っている。
「僕なりに君をもてなしたかったんだが。不満だったかな」
 彼が外鬼の中でも特別なのは、身分や血統ではない。魔術を使えるということ。持て余す長い時間を、魔導の探究に費やしている。啼が見た夢が、夢であったと思えなかったのはそのせいだ。
 夢だったのかも知れない。だが、操作していたのはこの男だ。
「悪趣味だな」
 吐き捨てるように啼は言った。
「そんなことないだろう。よくあることだよ、もてなしのひとつじゃないか。まあ、君には眠る方が大事だったみたいだけど」
「当たり前だ。必要ない」
「つまらないことを言うね。興味ない訳じゃないだろう」
「興味のない相手とする気はない」
 啼のはっきりした物言いに、ザークシーズは溜息をつく。
「窮屈な考え方だな」半ば呆れたようにザークシーズは言った。寧ろ、呆れ返っているのは啼の方なのだが。
「夢の中くらい、君はもう少し自由に振る舞っていいと思うんだけど」
 暢気な口調に苛立ちが募るが、この館、彼の元にいるだけで、不愉快に巻き込まれる事は充分承知していた。眠った自分が悪いのだ。
 耐え難い事実だが、この男しか頼る相手はいない。
 腹立たしい気持ちを抑え、啼は深く息を吐いた。


 その後。
 「紹介したい人物がいる」と言われて啼が連れてこられたのは、一階、食堂の反対側に位置する、ザークシーズが使っている書斎のひとつだった。人と面会するための、表向きの書斎という雰囲気だった。それでも壁面に設えられた書棚一面の本はどれも古く、読み込んだ形跡がある。
 書斎の奧、窓際には白い服を着た少女が立っていた。歳は十二、三というところか。長い金の髪、白い肌。どこかの令嬢といっても差し支えない雰囲気だった。
 外鬼だろうか。初めて見るはずだが、啼はどこかで会った事があるような気がした。
 雨の降り続く庭を眺める青い目が、不意に啼に向けられる。目を瞬くと長い睫が蒼い影を落とした。冷ややかな視線。端正な顔立ちはザークシーズと似ている気がした。彼女はとても整った顔立ちをしていたが、そのせいか、どこか人形のようにも見える。
「マリー」
 啼の背後からザークシーズが声を掛けた。
 その瞬間、少女の表情が変わった。花のような笑みを浮かべ、歩み寄るザークシーズに抱きつく。子供らしい無邪気な振る舞いだが、啼は妙な違和感を覚えた。
「伯爵、遅いじゃない」
 拗ねたような口調。少女は、ザークシーズ同様、流暢にこの国の言葉を使った。
「済まないね。でも、そんなに待ってないだろう」
 胸のあたりにある小さな頭に手を置いて、ザークシーズは静かに言った。「さあ、きちんと挨拶するんだ」
 少女はザークシーズから手を放し、啼を振り返った。少し不機嫌そうな、微妙な面持ちで少女は一礼する。仕草は優雅だが、どこか不満そうだ。そうして、すぐにザークシーズの背後に回った。
 少女の様子に肩を竦め、ザークシーズは小さな溜息をついた。
「マリー、僕の娘だよ。といっても本当の意味では血の繋がりはないし、僕らの種族でもない。けものでもないよ」
 そう言って浮かべた笑顔には裏があった。
「……それに、人でもないんだろう」啼は感じたままを口にする。
 外見、口調、仕草。少女として完璧だが、人としてどこか不完全に思える。完璧すぎるが故に。
 啼の勘は当たっていた。ザークシーズはにっこりと微笑み、 「やはり君には分かってしまうかな。まあいい、僕の娘ということで了承してくれ」
 と言った。
 深く追及する気もないので、啼は黙って先を促す。了解したように、ザークシーズは背後の少女を一瞥した。少女はザークシーズの腕を掴んだまま、伺うように啼を見ている。
「端的に、だったね」
 昨晩、啼が繰り返した言葉だ。啼は頷く。
 ザークシーズは少女を傍らに引き寄せ、華奢な肩に手を回す。黒いガウンの中で、少女の白い服と肌が浮き上がった。
「彼女が、君を案内する。啼、マリーをよろしく」


五 章 <前編>

 空は昨日よりも暗く、庭園の緑は青黒い染みのように滲んで見える。
 連日の雨で、庭園を散策する者は一人もいなかった。
 雨に沈む庭園から視線を移し、啼は改めて館を見上げる。白百合の館は薄暗い雨の中でも美しさを損なわなかった。館の中にはザークシーズをはじめ、幾人かの使用人がいるはずだが、姿はおろか気配すら感じられない。
 こちらからは見えない場所から、あの浮薄な笑みを浮かべて自分を見下ろしているのだろう。気に入らないが、ザークシーズは今、唯一の協力者だ。彼の手引きがなければ、核心へは到達できない。
 湿気た空気を大きく吸い込んでから、啼は館の裏手へと戻った。
 裏手には庭園を南北に分ける道路へ続く私道がある。裏口の前には、黒い車が一台止まっていた。街でよく見掛ける車種で、黒は特に人気が高い。運転席には既に黒い上着を羽織ったムーサが座っており、建物の影から現れた啼に気付くと、目で乗るように指示する。
 裏口に戻った啼は借りた傘を畳み、戸口に立て掛けた。些か暢気にも見える様子で雨具の水気を払っていると、裏口の扉が開き、あの少女が現れた。服と同じ白の傘を持った少女は啼を一瞥したが、ふいと目線を移し、足早に車の後部座席へ滑り込んだ。大きな犬――いや、狼――と共に。
 ザークシーズに案内役を命じられた少女、マリー。彼女はひどく不機嫌な顔をしていた。その足元に蹲ったのは、群れのリーダーと思しき狼だ。少女は狼を怖がってはいないが、疎ましげに睨んでいる。
 狼の事はともかく、先程の様子から、どうも自分は嫌われているらしい。心当たりはないが、郷者というだけで人外の存在から倦厭、牽制されるのはよくあることだ。
 世話になる少女の機嫌をこれ以上損ねたくはなかった。啼はなるべく静かに隣に乗り込んだ。
 扉を閉じた瞬間、車は静かに動き出した。後部座席に二人と一匹を乗せた車は、雨の私道を滑るように走る。裏門は既に開いていて、門の横にはムーサと同じような服装をした使用人が傘を差して立っていた。
 不思議なことに、啼はこの男の顔を覚えることが出来なかった。ザークシーズの使用人には、人や、陰獣ですらない者が紛れているのかも知れない。車が脇を通る時、一礼した使用人の顔は傘に隠れてほとんど見えなかったが、口元は歪んでいるように見えた。
 少し走ると、庭園を分断する道路に出た。歩く人の姿がないのは予想していたが、すれ違う車もなかった。普段から交通量が多いとは言えない場所だが、今日は一段と静かだ。
 薄暗い車内で、昨晩と同じように、啼は雨音へと意識を傾ける。くぐもった音の中で、一時間ほど前の会話を思い出していた。

「さて。時間もないことだし、手短に済まそうか」
 啼とマリーを引き合わせた後で、ザークシーズは言った。
「君には特別に教えてあげよう。僕ら種族の誇りたる戦士長たちの、独自のしきたりについて」
 傍らのマリーが顔を上げ、無言でザークシーズに何か訴えている。だが、彼はそれに応じず、彼女の頭を撫でた。
「戦士長たちは、彼らの強さを称えられると同時に、戦士としての模範を求められている。当然、行動にはいくつかの制限がある……たとえば、無駄に血を流さないために、とかさ」
 そう言ってザークシーズは嘲るような笑みを浮かべた。いかに結束の硬い種族といっても、攻撃性の高い外鬼だ。禁じられていても、同族内部の確執や争いが繰り返されているであろうことは容易に想像が付いた。もっとも、そうした諍いは外鬼に限ったことではないが。
「自分の領地で何をしようが勝手だが、誰かの領地――特に、戦士長同士の場合、互いの城、住居を訪れる場合、一人以上の部下を連れて動いてはならない、とされている」
 ザークシーズは一旦言葉を切る。
「場合によってはどこかに複数の部下を待機させる事もあるかもしれないけど、彼らのプライドがそれを許さない。だから、大抵の戦士長は一人の、出来の良い部下を連れて歩く。戦場以外では、彼らは案外大人しいんだよ」
 それだけのことだけどね、と笑って、啼の顔を改めて見た。
「向こうに着くまでに最悪の事態が起こったとして、相手にするのは二人」
 その言葉に、ザークシーズは意地悪な笑みを浮かべる。
「えらく簡単に、二人、なんて言うね。随分と自信家なんだな、知らなかった」
 彼の言うことはもっともだ。この情報が朗報とは言い切れないのは、啼が一番良く分かっている。戦士長が模範的な戦士とは限らない。彼の妹がそうであるように。
「……部下には、戦士長を御する役目もあるんだろう」
 溜息をつく啼をザークシーズは満足げに眺め、笑った。
「ま、何を最悪とするのかは別だが、君の言うとおりだ。でも、君の逃げ足は速いし、マリーもいる。きっと大丈夫だよ」
 そう言って少女の頭を撫でる。少女は相変わらず何も言わなかった。彼女が見た目通りの子供ではない事は分かるが、戦闘に向いているとは思えない。流石に彼女を頼る気にはなれなかった。
 それ後、ザークシーズは簡単に段取りを語った。非常にシンプルで、作戦と呼べる物はひとつもなかったが、それで充分だった。
 話が終わり、啼が部屋を出ようとしたときだった。ザークシーズは啼の背中に声を掛ける。
「僕の妹は自由人でね、一人で行動することもある。誰かがいないと厄介を起こすから本当に困るよ。なにしろ、血を分けた兄妹ってだけで、僕に尻ぬぐいが回ってくるんだから! まったく、勘弁して欲しいね」

 ザークシーズ特有の笑い方を思い出し、啼は軽く咳払いをする。気分を変えるように窓の外に視線をやると、昨晩啼が車を降りた場所にさしかかっていた。そのあたりには柵に寄り添うように傾いた楠があるのだが、そこには黒い傘があった。
 木の下に、黒いジャケットを着た背の高い男が立っている。ちょうど木の陰になるから、雨宿りをしているように見えなくもない。
 車は男の横を通り過ぎる。それは若い外国人だということが分かった。道路に背を向けているので顔は分からないが、薄い金色の髪は黒い傘の下でも目立った。
 男の姿が見えなくなるほど進んでから、ムーサが口を開いた。
「あれは、妹君の四の剣だ」
 ザークシーズの妹、戦士長ウルスラ。やはり、彼女は動いていた。
 外鬼はそれぞれの部隊の中で部下に格付けを行っている。一を隊長とし、以下実力毎に位が決まる。大抵は十位前後まで決定している、と啼は聞いていた。だが、ウルスラの場合は四位までしか格をつけていない、とムーサは言った。彼らはずば抜けた実力の持ち主で、それ以下と雲泥の差があるのだと。
 ちなみに、四の剣は、第四位の剣が得意の者、という意味になる。
 あの木の下に彼がいたのは偶然ではなく、何かを察知しての事だろう。啼がいた気配か、結界の綻びか、それはわからない。
「彼とは面識が?」
 ムーサは頷く。
「四の剣は、二の斧と並んで従者を務めることが多い。それに――」
「それに?」
 言い淀むのは彼らしくない気がして、啼は思わず先を促した。少しの間をおいて、ムーサは無表情に続ける。
「妹君が館を訪れる時、あの男を伴うことが多い」
 彼が言おうとしていた事だとは思えなかったが、啼は深く追及しなかった。何かトラブルを抱えているのかも知れないが、それは彼自身の問題だ。今の状況で、啼が興味本位に聞き出す事でもない。
「二番目じゃなかったのは不幸中の幸い、なのかな」
 バックミラー越しに啼の顔を一瞥し、ムーサは曖昧な表情を浮かべる。
「妹君の部隊は特殊だ。二から四までの実力は同等と考えていい」
「なるほど。じゃあ、意地でも見つからないようにしないといけないね」
 その言葉に、横に座っていた少女――マリーが徐に口を開いた。
「ばかね。あなた、いいかげんなのよ。あんなところから入るなんて。もう見つかってるわ」
 啼はマリーを振り返る。マリーは、いい気味だとでも言わんばかりの表情で啼を見返した。大きな青い目に啼が映りこむ。
 彼女の機嫌を損ねないためにはどう返答すべきか考えたが、適当な言葉が浮かばなかった。
「そうなんだ」
 気の抜けた言葉に、少女はむっとする。反応が良くなかったらしい。申し訳ないような気がしつつも、啼は苦笑した。マリーは益々口を尖らせ、啼を睨みつけた。
「伯爵に気に入られるなんて、よほど意地悪なのね。だって、伯爵が気に入る相手はみんな意地の悪い人だもの」
 ザークシーズは彼を嫌う相手をいちいち構っているのだろうか。確かにそちら側に立てば意地悪になるだろうが、と思いつつ、啼は改めてうんざりした気分になった。
 それにしても、彼女にそこまで非難される覚えはなかった。啼は静かに問いかけた。
  「おれ、君に意地悪したかな」
 柔らかい口調が却ってマリーのカンに障ったのか、彼女は眉間に皺を寄せる。
「失礼しちゃう。全然分かってないのね。……あなた、女心が分からないって言われるでしょう」
 背伸びしたような言葉に、啼は再び苦笑した。
「思い当たる」
 やっぱりね、という表情でマリーは啼を見上げた。その表情は少女というより、啼と同世代の女が見せるものに近い気がした。
「思わせぶりな癖に自分勝手にそっぽを向く。あなたみたいな男って、結局自分のことしか見てないのよね。優しそうなだけで、本当はぜんぜん優しくないし。こっちがわかってないとでも思ってるのかしら。本当にうんざりするわ」
 無邪気な様子とはほど遠い発言に、啼は少し顔を顰めた。ザークシーズの「娘」が外見に見合う年齢とは考えられないが、この姿で言われるとさすがに悪趣味な気がして、啼は黙っていた。
 もっとも、黙ったのは彼女の指摘が的外れでないことも原因なのだが。
 その様子に、マリーは不敵な笑みを浮かべた。
「あなたって、全然わかってないのね」
 窓の外に目をやり、啼は溜息混じりに言った。
「君が子供じゃないことはわかったよ」
 いいえ、と首を振る。視界の隅で長い、金の糸のような髪が揺れた。
「伯爵の子供って、そんなに外れてないと思うのよ」
 彼女の語る内容を完全に理解できるわけではない。しかし、啼は何か思いついたのか、マリーに向き直ると改めて彼女の全身を見た。薄暗い中でも透き通るように白い肌、発光するように輝く髪。華奢な指先の爪の整った形……足元は暗く、また狼の姿でよく確認できないが、それでもすべてが不自然なまでに整っていることがわかる。左右対称と言っても良いほどに。まるで、精巧に作られた人形のようだ。
 人形。それは、この少女を形容するのにとてもしっくりくる言葉だった。
 整いすぎた少女の体は容器(いれもの)で、中身は形のない何か。ザークシーズという魔術師なら、そういうものを生み出すことも可能かもしれない。
「もう会ってるのに。ずっと気付かないなんて、本当にひどいわ」
 その言葉を聞いた瞬間、啼は思わず「ああ」と声を漏らした。
「だから君に見覚えがあったのか」
 彼女が住むのは夢の世界。彼女の操る夢はあらゆる感覚が揃っている。
「私、結構いい感じだったでしょう? なのに寝ちゃうって……本当に、相当なものよ」
 夢が夢だという確信が持てなかったのも当然だった。あれは、もうひとつの現実だ。
「……すごく眠かったんだよ」
 啼の小さな呟きをマリーは聞き逃さなかった。
「あなたのそういうところが大嫌いよ」
 言葉とは裏腹に、彼女の目は笑っていた。
「伯爵の言いつけだからね、あなたのこと案内してあげるわ」
「ありがとう。よろしく、マリー」
 そう言って啼が視線を上げると、バックミラー越しに一瞬、ムーサと目があった。前にも似たような表情を見た気がするが、何が意外なのか啼にはわからなかった。

 都心部へと近付くにつれて車の数は増えたが、やはり普段より少ない。宵の口だが歩道をゆく人影はまばらで、闇は普段より濃いように感じられた。
 若者に人気の繁華街と平行する目抜き通りを抜け、高架を潜る。再び大通りに出ると、大きな四つ角の交差点があった。この場所では既に交通量も少なく、店が閉店した後と言うこともあって人影もほとんどなかった。街路樹の影ばかりが目立つ。
 信号が変わると車は住宅街へ続く方向へと曲がった。街路樹がなくなり、背の高い塀が並ぶ。高級住宅街として知られた場所で、繁華街の側にありながら、街の喧噪は聞こえてこない。このあたりは住人に外国人が多いため、景観も大分異なっていた。
 車は細い路地の前で止まった。車が入れない道幅ではないが、歩く方が都合いい。
 後部座席の扉が開き、白い傘が開いた。先に出たのは紐に繋がれた狼で、次に出てきたのは少女。しかし、その後に続くはずの啼の姿は見当たらなかった。
 扉を閉めると、マリーは狼と共に歩き出す。少女の行き先を確認することなく、車は走り去っていった。一時間ほどしたら、この場所へ戻ってくることになっている。
 マリーの姿が路地に消えて暫くしてから、路地の入り口には黒い傘の男が立っていた。庭園の脇にいた男――ウルスラ配下・四の剣だ。
 男は自分が追ってきた気配を確認するように周囲を見回した。細い路地と、先程まで車が止まっていた辺りを交互に見る。小さく息を吐いて、路地へと歩き出した。


五 章 <後編>

 街は静まりかえっていた。家々には明かりが灯っているが、その光はよそよそしい。
 ぽつぽつと設置された街灯の下、マリーは白い傘を差し、散歩でもするような足取りで道を進む。紐に繋がれた獣が傍らを歩くので、散歩と言えないこともない。だが、少女が連れて歩くにはいささか不釣り合いな「犬」だ。
 彼女は案内役のはずだが、相変わらず案内されるべき啼の姿は見えず、周囲には気配すらなかった。それでも、マリーはどこかを目指し、歩き続けた。
 この路地は、入り口は狭いがしばらく進むと道幅が二車線分の広さになる。しかし、ゆるやかに蛇行した道はあまり見通しが良いとは言えず、等間隔で設置された光量の強い街灯もあまり役立っているようには思えない。それは街灯を遮るように設置された街路樹のせいかもしれなかった。木々は街の闇を増幅している。明るく落ち着いた街並みのはずだが、奇妙な静けさと暗さが混在していた。
 傾斜の少ない坂道を上りきった道の脇には、ちょっとした公園があった。入り口脇に設置された公衆電話の光を一瞥し、マリーは気紛れのようにその中へと入っていく。狼は少女の意志を察し、前を進んだ。
 道から横に伸びた公園は上から見ると長方形のような形をしている。ちょっとした、というには結構な広さだったが、特に遊具らしいものは見当たらない。公園、と言うより緑道という方が近いかもしれない。脇にはベンチが設えられ、天気の良い昼間であれば、なかなか気持ちの良い場所のように思われた。
 木々の間から背の高い街灯の光が降り注いでいたが、これもまた成長しすぎた緑に遮られている。緑と黒い鉄柵に囲まれた公園の中は、一層暗く思えた。
 公園の中程で、大きな水たまりを避けようとマリーが歩を止めた時だった。
 背後から、男の声が響いた。
「こんばんは」
 それは、異国の言葉だった。
「こんな雨の夜に犬の散歩なんて、危ないよ」
 妙に間延びした、暢気な口調。体を震わせ、マリーは警戒した様子でゆっくりと振り返る。
 肩越しに見えたのは、彼女を追ってきた例の男――ウルスラ配下・四の剣だった。
 彼女が言った通り、啼が結界を越えたあの場で、彼は待機していた。そして、いかなる手段なのか彼女にはわからないが、確実に追ってきた。
 マリーが分かる範囲で、彼は一人だった。そして、それは間違っていないだろう。この場所は、彼らの部隊が自由に闊歩できる場所ではない。
 ひょろりとした風貌、背が高く、なんとなく薄っぺらい印象のする男だった。左手で傘の柄を持ち、どこか億劫そうな様子で黒い傘を手に立っている。外鬼特有の健康的とは言い難い肌色は黒い服装のせいで一層白く見えた。
 無造作に散らばった髪型は、彼の適当な性格を表しているようにも思える。整った顔立ちだが、美しいという形容は彼にそぐわなかった。薄い唇が小さな笑みを作る。
 男が足を踏み出そうとした時、狼はさっとマリーの前に出、牽制の姿勢をとった。そして、一度だけ低く唸った。それを見た男が近付いてくることはなかったが、マリーを見て微笑んだ。
「想像していたよりずっとかわいいね、君」
 場にそぐわぬ頓狂な発言。マリーは何の反応も示さず、ただ立ちすくんでいた。
「……言葉、通じてる?」
 男の態度は、女に接する時のそれに変わっていた。
 マリーは少しの間をおき、ええ、と頷いた。男は相変わらず気怠そうな調子だったが、「そう、良かった」と笑った。
「大変だね、君も。こんな日に伯爵のおつかい?」
 体を四の剣に向けたマリーは何も言わなかった。青い大きな目が一度、瞬きする。
「俺も大変だったよ。あのまま見過ごしていたら、うちのボスに酷い目に遭わされるところだった」
 何が面白いのか、喉の奥で笑っている。それは不快な音だった。マリーは再び瞬きすると、今度は睨むように男を見た。傘を持つ指先が白んでいる。
「あなたのことなんて知らないわ」
 彼女の使う言葉もまた異国のものだった。男――四の剣は、もっともだ、と頷き、白い歯を見せた。
「結構あの館には行ってるけど、君と会うのは今が初めてだ。でもね、わかるんだよ。君はあの館特有のにおいがするし、それに、いかにも伯爵の趣味って感じだ」
「におい、だなんて」
 マリーは眉を顰め、後退りした。かかとが水たまりに入り、波紋が広がる。少女は怯えているが、誘っているようにも見えた。狼は更に姿勢を低くする。
「そりゃ、そのイヌには敵わないよ。でも俺、ハナが効くんだよ」
 傘を少し持ち上げ、軽い口調で言った。冗談のつもりかもしれないが、マリーの表情はますます強ばった。四の剣は肩を竦め、「ところで君は、自分がなんて呼ばれているか知ってる?」と訊ねた。
 答えを聞く前に、四の剣はゆっくりと右手を腰の後ろへ回す。かつ、という小さな音のあと、彼の手には鈍い銀色の、剣の柄のような物が握られていた。
「いいえ。知るわけないじゃない」
 一連の行動を見守りながら、マリーは小さく答えた。
 四の剣は握った右手を垂直にして、僅かに振る。瞬間、格納されていた剣先が現れた。三つに分割された刀身がすらりと下まで伸び、刀身の細い剣となった。携帯用にと彼が作らせた剣の一つだ。
 マリーの返答に、残念だ、とでも言うように小さく息を付く。
「人形娘。かわいいお人形さんみたいだって――」
 彼はマリーを見つめたまま、一度剣を振った。水滴が飛び散る。闇の中で銀の刃が光った。
 瞬間、狼はマリーの元を離れ、四の剣に向かっていた。繋がれた紐は特殊な金具で留められており、金具はすぐに外れるようになっていた。狼は速く、流石の四の剣も右手を振り下ろす事は出来なかったが、剣先の動きは狼への牽制になった。反応した狼の動きに合わせ、四の剣は左手の傘を狼の真っ正面に突きだした。
 大きく跳躍して傘を避けた狼が着地し、振り返った時にはマリーの背後に四の剣はいた。それはマリーが逃げ出す寸前の事だった。マリーの白い傘は水たまりに落ちる。彼は空いた手でマリーを捉え、刀身を首筋に当てた。
 狼は低い声で唸っているが、それ以上近付こうとはしなかった。マリーの身を案じてか、攻撃する気配はなかった。
 黒い傘はひっくり返り、狼の手前で雨を受け止めている。ぼつぼつという音が妙に大きく響く。
「いくつか教えてくれないか」
 四の剣は静かに言った。救いを求めるように狼を見ていたマリーは、振り返ることも出来ず、震えながら小さく頷いた。
「……動物とか、女子供に手を出すなんて。あなた、最低ね」
「そういうことは、自分で言うもんじゃないよ」
 震えながらも自分を非難するマリーの発言に、四の剣は苦笑する。
「ここまで来てるんだから隠しようもないよね。あの伯爵が、『冥王』にどんな用があるの?」
 首に当てられた刃は冷たく、角度を変えればいつでもマリーの首を斬ることが出来た。
 マリーは怯え、震える声で「内容までは知らないわ。私は行くように言われただけだもの」と答えた。
 いくら脅されているとはいえ、行き先を否定せず、やけにあっさりと答えたマリーは明らかに不自然だった。背後から抱え込み、四の剣はその顔を見下ろした。怯えた顔は嘘を言っているようには見えないが、彼女が子供でも少女でもないなら、その程度は演技出来るだろう。
「協定に関係あるんじゃないの?」
「それも……知らないの、本当にわからない……」
 これ以上問いただしても無駄だろう。追及せずとも、彼女がここに来たというだけで十分な回答になっている。
 彼は質問を変えた。
「一緒にいた、もうひとつの気配は『何』だった?」
 それは奇異な質問だった。マリーは少し怪訝そうな様子で
「気配って……イヌじゃないの? わたしはそれしか連れてないわ」
 四の剣は、否、と首を振る。彼としては、こちらのほうが気になっていた。
「そのイヌじゃない。……結界を越えたやつと同じかな。あそこもそうだった、気配はあるけど掴み所がない」
「車を追って来たなら、誰が一緒だったか見ているんでしょ」
 マリーは半ば諦めたように言ったが、四の剣は再び首を振る。
「ああ、狼使いの彼ならよく知ってるが、あれとは違う」
 ザークシーズの館で知り合った、という事だろうか。微妙な口調に違和感を覚え、マリーは思わず反応した。
「知り合いなの?」
 その言葉に、四の剣は小さく頷く。
「古い知り合いだ。彼の妹もね」
 呟くような答え。マリーの脳裏に、車内で交わされていた啼とムーサの会話が蘇った。恐怖心も忘れ、面白いことを聞いた、という表情でマリーはうっすらと笑みを浮かべている。
「楽しいかい」
 男の声に、マリーは瞬時に現実に引き戻された。
「そうね、意外だったわ」
 少女の声は先程よりも僅かに落ち着いているが、四の剣、そして刃を畏れていた。四の剣はゆっくりとマリーの耳元に顔を寄せる。
「じゃあ、教えて。何がいた?」
「――あなた、さっきハナが効くって言ってたわよね。わからないの?」
 風が吹き、揺れた葉が大粒の雫を落とす。それは四の剣の上に降り注ぎ、彼は鬱陶しげに首を振った。彼は雨が嫌いらしい。少し苛立った様子で、早口に言った。
「ごく普通に考えて、郷者。それは俺じゃなくてもわかるだろ。俺が言いたいのはそういう事じゃない」
 なぜ、素直に郷のしのびだと思えないのか、彼自身にもよくわからなかった。ただ、彼の勘、嗅覚がそう訴えている。しのびだと思いながらも、どこか違和感を感じているのだ。郷のしのびなら、何度か対峙したことがある。しかし、それとも何か違う気がする。
 あの、殺された郷のしのび――重、彼は郷のしのびらしい気配を持っていた。郷のしのびとしての存在感。
「……わたし、あなたの言っている事、わからないわ」
 マリーの言葉に偽りはないように思えた。自分の思い過ごしかもしれないし、それ以上に伯爵によって気配や何かを攪乱されている可能性は高いのだ。伯爵の使う力は、四の剣の理解を超えている。
「そう。残念だよ」
 溜息をついて、四の剣は少女に最後の質問する。
「最後にもうひとつ。どうせ君、死なないんだろう?」
 軽く吐き出された言葉に、少女は驚いて体を震わせた。首筋に刃が食い込む。
 少しの間をおいて、マリーはか細く震える声を出した。
「もし、あなたが私に何かするなら――」
 少女の呼吸が荒くなり、震えが激しくなる。畏れている事は分かったが、四の剣は憐れみなど感じなかった。
「そのイヌがかかってくるって? そうなったら逃げるよ。俺、イヌには手出ししないから」
 確かに、狼に向けて剣を振るう事は無かった。四の剣は最初から狼を傷つけるつもりがないのだろう。
 そのことに思い当たったマリーは、震えながらも僅かに怒りを滲ませた。
「わたしがこれより劣るっていうの? 失礼しちゃう」
「俺、それの飼い主になるべく嫌われたくないんだ」
「伯爵?」マリーの質問に、四の剣は笑みを浮かべ、いや、と首を振った。「伯爵は、どうでもいい。どうせ、彼もそう思ってるんだろ?」
「そうよ。あのひとは、あなたみたいな戦士が嫌いだもの。わたしもよ」
 挑発というより、事実として彼女は言った。そんな彼女の様子に、四の剣は自分が愉快になっている事に気が付く。
「俺も、君がどうなろうと、気にしない」
 彼の言葉もまた本心だった。
 これ以上の問答は無用だった。四の剣は一呼吸おいて、マリーに言った。
「つまり、『冥王』に直接聞いた方が早いって事だね。まったく、面倒だな」
 肩を掴む手の力が弛み、解放されると分かったマリーは体をびくっと震わせる。男の腕から抜け出そうとした、その瞬間。
 四の剣の右腕が振られ、刃は細く白い首に埋まった。マリーは声を出す事もなく、手を首元にやりながらゆっくり、前に倒れかかっていく。四の剣は無言で剣を引いた。首を落とすためにはもっと勢いが必要だったし、いくら子供とはいえ、骨を断つのは面倒だから、斬るだけに留まった。それでも、十分な損傷の筈だった。
 これが、人やそれに類するものであれば、勢いよく出血するだろう。だが、それは起こらなかった。人でない事はわかっていたが、案の定の展開に四の剣は溜息をつく。
 用がないなら、処分した方が早い。それは、兄妹の確執に便乗した、彼の勝手な判断だった。
 四の剣は、魔術師といった類のものを、否定こそしないが嫌悪していた。少女に恨みはなかったが、存在自体が気にくわなかったのも事実だ。
 少女の体が膝をついたとき、その目が空を見上げた。四の剣が気付いたときは既に遅かった。首の切り口から、無臭の黒い煙が溢れ出ている。目を見開いた少女と目が合った瞬間、煙は勢いよく四の剣を襲った。
 吹き出す黒い煙は、少女を動かす何かの一部であった。首の切り口は広がり、とうとう少女の首を一周した。同時に首と胴体が不自然に離れていく。首には傷口も肉の色もなく、筒のような状態だった。覗き見える体の中は真っ黒で、がらんどうになっているようだった。
 重さに耐えきれず、首から頭部が転がり、鈍い音を立てて水たまりに落ちた。すると狼は激しく咳き込む四の剣を後目に、水たまりに浮かんだ長い髪を鼻先で器用にまとめると、口で銜える。少女の頭部は狼が持ち去ろうとしていたが、四の剣にはどうすることも出来なかった。
 咳き込む四の剣の傍らで、首のない少女の体は水たまりに倒れた。白いドレスが水たまりに浸って、灰色に染まっていく。華奢な少女の体は、四の剣の目の前で何も感じない入れ物に変容していた。
 そこに落ちていたのは、小さなセルロイドの人形――の、体だけだ。子供が遊ぶような玩具の人形。まるでそこに最初からあったように見えた。
 障気を吸わされた四の剣は、激しく咳き込んでいた。喉の奥が急激に乾き、呼吸が困難になる。これが一種の幻覚であろうことは分かったが、それでも体の違和感は消えなかった。彼は雨に打たれながら、水たまりの中に膝をついて咳き込み続けた。そのうち、口の中に血の味が広がっていることに気付く。いつの間にか、片方の鼻腔から血が流れていた。はたり、と落ちた血は水たまりの中、じわりと広がる。まるで何かの合図のようにも見えた。
 ここに至って、四の剣は初めて、人形娘の中身が何であるのか理解した。
 狼は公園の入り口の方へと向かっていたが、足を止め、四の剣を振り返った。
 切り落とされた少女の頭部は、口すら動かない精巧な人形の頭部へと変わっていた。瞬きせぬ硝子玉の目の端に雨粒が溜まって、涙のように流れ落ちていく。
『ばかね、あなた。ひとがたをむりに壊すなんて。そういうことすると、呪われちゃうのよ』
 かつて外鬼も使っていた古の言語で、狼に髪を銜えられた首だけのマリーは語った。その言語のほうが、より彼女本体の使う言葉に近いのだろう。
『血を流すなんて、あなたたちらしくないわ』
 先程までとは異なる、成人した女の声が響いた。四の剣は傍らの人形の体と、首を見比べる。
 外鬼は痛覚が鈍く、身体的な痛みに非常に強い。強靱な肉体を持つ彼らが「不死」と言われるのはそのためでもある。実際には不死というわけでもないのだが――。
 彼らは、決して痛みを感じないわけではない。だが、痛みに慣れないせいか、こうした事柄への対処が、あまり上手いとは言えなかった。
 もっとも、多少の幻術であれば、彼もこのような状態には陥らないだろうが。
「取り憑いて……殺そうっていうんじゃ、ないだろうね。ひどいな、君は……」  呼吸を整えながら、四の剣は人形の首を睨んだ。顔は無表情で瞬きひとつしなかったが、女の声は嬉しそうに続ける。
『少し貰うだけよ。待っててね、わたし、あなたに会いに行くわ』
 恋人に聞かせるような言い方に、四の剣は露骨に嫌な顔をした。
 会話が終わったと了解したのか、狼はふいと体の向きを変える。そして、マリーが歩いてきた道を、大通り目指して勢いよく走り出した。

「なんで……俺が呪われなきゃならないんだ」
 水たまりに膝をついたまま狼を見送った四の剣は、忌々しげに呟くと、よろよろと立ち上がった。
 ずぶ濡れになった彼は、傍らに落ちていた自分の傘に手を伸ばした。中には水が溜まって、中の水を出しても傘として利用するのは些か気が引ける。小さく溜息をつくと、傘を畳んだ。
 傘を小脇に、入り口脇に設置された公衆電話へと歩きながら、上着のポケットを探った。コインが何枚か入っている。
 電話の前で彼はコインを数枚取り出し、何処かへ電話をかけ始めた。二度のコールで電話を切り、再び同じ番号にダイヤルする。二度のコールで受話器が上がった。
 電話の向こうは静かだった。四の剣は挨拶するわけでもなく、億劫そうな様子で話し出す。
「どうにかならないんですか、あなたたち兄妹。とんだとばっちりですよ」
 受話器の向こう、相手は鼻で笑ったようだった。
「何があった?」
 低めの女の声。回線のせいか、ノイズが混じっていた。
 落ち着き、傲慢にも思える様子で、女は訊ねた。四の剣は手短に伝える。
「狼を連れた人形娘と少し。で、首が落ちた」
「落としたんだろう? 馬鹿め」
 さらりと言い放った。四の剣の憮然とした様子が楽しいのか、くつくつと笑っている。
 女は人形の中身が何であるか知っているようだった。そして、夢魔の呪いがどのようなものであるか、二人ともよく知っている。魅入られた者は精が尽きるまで「搾取」される――それが常だ。過去に、そういう者を何人か見たことがある。いずれも、現実には存在しない恋人を想いながら死んでいった。
 人形の首は、少し貰うだけ、と言っていた。命をとるつもりはないのだろうが、だとしても。
「そういうことじゃないでしょう」
 鼻血を拭いながら、うんざりした表情で続ける。「当分仕事が出来なくなったら、あなたの兄上の責任ですよ」
 女はふん、と鼻を鳴らした。
「まさか、本当にただの人形だと思っていたわけでもあるまい。不用心なのはお前だ」
 夢魔が司る世界は陰獣である彼ら外鬼にも不可侵の領域だ。肉体を持たぬ者達を御するのは魔術師と司祭――あるいは。
 四の剣は「俺、信心深くないから」と溜息をついた。
「まぁいい。それで?」
「『冥王』の邸宅に向かっているようです」
 受話器の向こうから舌打ちが響いた。
「誰が?」
「さあ」
 曖昧な様子で四の剣は答えた。女は苛立ちを露わにする。
「それは、どういう意味だ」
「言葉通り。向こうでもお伝えしたでしょう。状況的には、たぶん郷のしのび」
「だろうな」
「でも、だとしたら、――かなり、変わってる」
 意味を掴みかね、相手は黙っていた。四の剣もそれ以上続けるのを辞めた。彼が感じた違和感は、伯爵によって人為的に造られた違和感かもしれないのだ。
「まあ、俺の気のせいで、あなたの兄上の仕業かもしれませんが」
 女はふんと言って、「わかった。お前は戻れ」と指示した。電話が切られると察して、四の剣は声を上げる。
「なんだ?」
「狼は?」
「……放っておけ。どうせ『家』に帰るだけだ」
 女はうんざりした様子で答えた。四の剣はお構いなしに、「それはよかった」と息を付いたが、その言葉は女の神経に障ったらしい。
「馬鹿か、お前は」
 本気で呆れているようだった。しかし、四の剣は慣れた口振りで、いつもの台詞を繰り返した。
「あなたの命令には従ってる。だけど、俺の人生まで指図されるつもりはないですよ」
「勝手にしろ」
 その言葉を最後に、電話は切れた。
 受話器を置いてコインを回収すると、四の剣は手にした傘に目を落とした。小さく溜息をついて、傘を開く。狼と同様に、彼も来た道を引き返していった。



2008-2009. 刃の下に心 <忍>  / 大村
http://ichimaru.onmitsu.jp/
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