序章

 重(かさね)が死んだ。
 死に様については、忍務に同行していた捌撃隊(はちげきたい)の谷七(やしち)から聞いた。
 まだ傷口も塞がらず、発熱が続く状態だったが、谷七ははっきりした口調で重の死に際を語った。
 谷七自身も相当の深手を負い、二度と前線に赴くことは出来ないかもしれない。だが、それについて谷七は何も言わなかった。
 彼は生き残った。

 重と五条、そして啼(なき)は同世代のしのびだ。
 三人は伍隊(ごたい)に属していた。生まれた境遇も性格もそれぞれ異なったが、親友だった。
 奔放で器用な重、いつも朗らかで真面目な五条、物静かで内向的な啼。
 十五、六まで三人の能力にさしたる差はないように思えた。だがある時期を境に、重は突出した才能を現す。二十歳を過ぎる頃、五条も啼もそれぞれ優れたしのびとなったが、重ほどのしのびにはなれなかった。
 重は、何もかもが違っていた。嫉妬するのもばかばかしくなるほどに。

 重が死んだ。
 啼は自分に言い聞かせるように、その言葉を頭の中で繰り返していた。


序章

 傘の柄を持ち直し、啼は視線を上げた。
 その年は六月の下旬になっても肌寒かった。なだらかに下る砂利道の真ん中にできた水たまりを避けながら、彼は垣根に紫陽花が並ぶ五条の家へ向かった。
 郷の中は鄙びた山村といった風情で、そこがしのびの郷だとはわからなかった。現代的な建物も見られるが、古い民家も多く存在する。変哲のない山間の村。よくある景色と特に変わりない。
 黒い傘は角を曲がり、郷の中央へ続く道に出る。道の少し先、右手には紫陽花が見えた。そこが目的地だ。
 五条は平屋の一戸建てに、妻と、見習いの若いしのびと共に住んでいる。五条が見習いのころ居候していた家屋を、住人だったしのびから受け継いたものだ。師弟関係のあるしのびの間ではさほど珍しいことではない。
 紫陽花を横目に木戸を潜り、玄関先で傘を畳む。その間に玄関が開いた。
「お久しぶりです」
 少年の声に顔を上げる。五条の家に住む若い見習のしのびだ。
 いつも啼を出迎えるのは五条の妻だが、今日は外出しているという。差し出されたタオルで雨雫を軽く払いながら、啼は挨拶と礼を述べた。タオルを返すと、少年に促される前に家の中へ上がっていった。
「あの、まだ濡れてますけど…」
 少年は視線で肩のあたりを示した。白いシャツの肩は、薄暗いせいか濡れた部分が灰色に見える。
 啼は軽く首を振った。
「いいんだ、じきに乾くから」
 そういって廊下を歩き出す。
「隊長は書斎におられます」
 少年の声に、啼は軽く右手を挙げて答えた。

 この家は純和風の平屋だが、書斎だけは半端な洋間になっている。先代の持ち主が中途半端な改装をした結果なのだが、五条は気にすることなく、そのまま使っていた。
 客間の角を曲がった廊下の突きあたり。書斎に着くと、啼はなにも言わず襖を開ける。
 五条は窓の外を眺めていた。部屋の右奧にある机の前に座り、考え事をしているようだった。机の上には書類が広がっているが、片づいた様子はない。
 八畳ほどの室内は、以前と変わらず書籍や資料といった大量の紙に占拠されている。五条は片付けのできる男だが、書斎だけはなぜか違っていた。
 啼は後ろ手に襖を閉め、本の山や資料を崩さないよう進む。部屋の真ん中にある座卓に乗ると、片膝を抱えた。これは啼の癖だった。
「雨の中呼びつけて悪かったな」
 視線を外に向けたまま五条は言う。
「いや」
 雨は降り続いていた。五条は立ち上がると窓を開け放つ。雨音と共に、湿気を含んだ冷たい空気が室内に充満した。庭の景色は長雨のせいか淀み、鮮やかに色づいた紫陽花が妙に浮き上がって見える。
 この二人が顔を合わせるのは久々だった。
 重の死から二十日。他の殉職したしのびと同様、重の葬儀も簡素に執り行われた。その時にも二人は顔を合わせたが、軽く会釈しただけだ。彼らは友人だが、役目が違う。
 徐に五条は口を開いた。
「しばらく、一〇番は欠員にしようと思うんだが」
 啼はぼんやりと眺めていた紫陽花から目を離すと、顔を上げて五条の顔を見た。浅黒く彫りの深い顔は、沈痛な面持ちで啼を見返す。五条もまた重の死を深く悼む者の一人だが、彼の役目が親友との想い出に浸る暇を与えなかった。
「そうか」
 啼は小さく頷く。
「そうだ」
 五条も頷いた。
 一〇番。その数字はいつからか、伍隊の中でも特に優れたしのびに与えられるものとなっていた。もちろん全ての一〇番がそうだった訳ではないが、重がその数字を与えられたのは優れていたからに他ならない。
 いまの子供達に、一〇番は重すぎる。重の後では特に。
 今後、重を越える者が現れるのか、それもわからないが。
「うん、妥当だと思う。誰も文句はないよ」
 重と比べるのは酷だよな—啼はぼんやりと思う。
 その言葉に、五条の表情は少し和らいだ。
「お前が同意してくれるってことは、俺の判断は間違ってないな」
 些か暢気にも聞こえる声で五条は続ける。
「本当のことを言えば、お前が一〇でもおかしくないと、俺は思ってるんだが」
 それまで何の感情も示さなかった啼の表情が、少しだけ動く。
「お前は、いつも誰かの影に隠れようとするだろう。重はちょうどいい相手だったよな。あと、たぶん俺も」五条は笑みを浮かべた。
「お前は本当に目立つことが嫌いだからな」
「冗談だろ。買いかぶりすぎだよ」いかにも困惑した様子で啼は溜息をつく。
 その姿に小さく笑いながら「まあ、そういうことにしておいてやるよ」と言い、五条は机に戻った。
 彼は居住まいを正すと、改めて啼を見た。
 重の死は、不幸な殉職ではない。ある種の「政治的」な意味合いも含んでいた。懲罰であると同時に、ただの殺し—私怨とも気紛れともつかぬ—でもあった。
「お前は勘がいいから、谷七の話で察しはついたと思うが」
 啼はその問いに答えなかったが、五条は構わず続けた。
「俺たちは、重の仇はとれない。いや、とることは決して許されない。わかるな」
「…仇をとろうなんて、考えもしなかったな」
 気が付かなかった、という様子で、啼は呟いた。
「だろうな」
 啼が考えない事を五条も承知していたが、敢えて言った。彼は続ける。
「重は——歪めはしたが、責任は果たしたと思う。谷七もな」
「協定上問題ないはずの、ちょっとの差じゃないか」
 啼は思わず口を挟んだ。五条は首を振る。
「その、ちょっと、が問題なんだ。捌撃隊の連中にはそれなりに算段があったんだ」言い聞かせるような口調に、啼は小さな溜息をつく。
 捌撃隊は谷七の所属する部隊だ。彼らは特殊な能力を有するためか、郷全体の意思とは別に、独自の考えを持つ事があった。
 啼もそれは感づいていたし、重の罪も認識している。それでも、どうしても納得できない事がある。「そんなの」
「重は死んだんだ。それじゃだめなのか」
 重の無邪気な笑顔を思い出した。
「それで許せないなんて、おかしい」
 そう言うと俯き、黙りこんだ。
 雨音が響く。五条は躯を小さく丸めた友人を見ながら、改めて思った。
 普段ほとんど感情を出さないが、啼はとても友情に厚い。感性は繊細で、すこし純粋すぎる。五条は時々、啼のそうした部分を子供のように感じる事があった。
 そういう啼だからこそ、五条は信頼できるのだ。
 重がそんなに間違った事をしたとは、五条にも思えなかった。彼もまた啼と同じように若く、重をよく知るからかもしれない。もちろん、忍務を遂行する、という意味では許される事ではないのだが、すべてを納得できるわけではなかった。
 むしろ、判断を誤ったのは自分たち幹部ではないのか。——それは、協定の話が出てからずっと、五条の中に蹲る違和感だった。
 五条はゆっくりと口を開いた。
「俺は個人的にも、できるだけ静かに、すみやかに、残りの問題を解決したい。そして、それをお前に頼みたい—いや、お前以外には無理だと思う。重のためにも、どうしてもやって欲しい」
 啼は顔を上げる。薄い黄土色の目が五条を見据えた。
 五条は、少し微笑んでいるように見えた。
「もちろん、やるよな?」

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