三章 前編後編

三章

前 編

 狼使いに連れられて啼が目的地に到着したのは、あれからすぐのことだった。遠くに見えていた筈の丘は目と鼻の先にあり、そこには啼の目指す大きな屋敷が構えている。
 これが本来の距離感なのだろうか——啼はぼんやりと思った。自分が実際に歩き、感じたほどにこの庭園全体は広くないのかも知れない。
 あの高い柵を越えた時点で、世界は一変した。
 ここが闇の力によって制御されていることは啼も肌で感じた。土地の所有者が特別な力で空間を操作しているのであれば、様々な不可解なことにも説明もつく。正規の手続きを踏まない侵入者を翻弄する事も容易であろう。
 大きな屋敷のまわりには一般人を立ち入らせないための柵があった。啼の頭より少し高い柵の向こう側には、横一列に植え込まれた薔薇と、目隠しのための植え込みがある。木の高さは柵と同じくらいだが、植え方が良いのか威圧感はなかった。
 それはいかにも西洋の庭園らしい豪奢さがあった。こういった庭園も美しいと思う反面、些か人工的で、啼はいつも居心地の悪さを感じてしまう。
 狼使いは柵沿いに、建物の裏手へと向かう。そこには使用人用の出入り口と思しき扉があり、内側には更に古めかしい木戸が構えていた。男は錠を外して木戸を開けると、狼を先に入れる。三頭の狼は軽い足取りで柵の中に消えた。啼も促されるままに入っていく。
 外から見るよりも、ずっと大きな屋敷が構えていた。左右対称の造りをした白い屋敷は、ところどころに大理石が使われているようだ。しかし全体としては簡素で清楚な雰囲気があり、どこか女性的な印象を与えた。制作者が細部にまでこだわった結果なのだろうが、素直に美しいと啼は感じた。
 屋敷の周囲も庭になっていて、遠くにテラスのようなものも見えるが、闇と雨ではっきりしたことは分からなかった。
 白い屋敷の横には石造りの小屋と、使用人用の住居らしき建物があった。白い壁に黒い屋根、簡素ではあるが、そちらもどことなく優美な印象がある。
 狼使いが扉を閉める間、啼は妙な感慨をもってその景色を見回していた。啼はここに初めて来たが、この場所を全く知らないわけではない。
 突然、狼使いが声を発した。
 それが外国語だろうとは判断出来たものの、啼には何と発音していたのかすら聞き取れなかった。あまりに聞き慣れない言語だった。
 その言葉で、男は狼に指示を出したていた。振り返ると、狼たちは男の声に従い、扉が開いたままになっている石造りの小屋へと向かっていく。狼たちは入り口あたりで体を震わせ、水滴をまき散らしていた。
 その姿を見届ける男の様子をまじまじと見ていて、啼は思わず
「詳しいことは知らないけど、君たちの種族は、もっと静かなところで暮らしているものだと思っていたよ」
 言い切った瞬間、彼は後悔した。余計な詮索をするつもりはなかったのに、と。
 男は、その後悔を見逃さなかったらしい。不愉快な顔をするでもなく、短く言った。
「私たちは、卿にとても大きな恩義がある」
 不躾な行動を咎めるわけでもなく、男は静かに答える。
 端的な言葉だったが、彼ら種族にとってそれがどれだけ重い意味を含むか、啼は理解していた。
「そうなのか。——ありがとう」
 敬意を持って接したいと思う相手には、自分が感じたように素直に接する。それが啼だったが、その素直さは再び狼使いを少し驚かせた。だが、驚きはすぐに消えた。
 何事もなかったかのように視線を戻し、「こっちだ」と言うと、闇の中を早足で歩き出した。

 啼は屋敷の横にある、使用人用の建物へと連れて行かれた。
 こちらは屋敷と異なり更に簡素な造りをしている。そして、外観だけでなく生活様式も完全に西洋のそれだった。
 靴履きのまま家の中を歩き回る事に抵抗を感じる啼は、外国の様式にはいつも戸惑いを覚える。だが、この建物の中ではあまり違和感を感じなかった。庭園といい、すべてが別世界として設えられた空間だからかもしれない。
 この古い建物が持つ独特の雰囲気、白い壁と焦茶色の床が、啼の気持ちを落ち着かせた。
 土間で雨具を脱ぎ、その後案内された小部屋で、啼は屋敷の主に会う為の身支度をさせられた。
 男が去るとほどなく、啼と同じか、少し若く見える華奢な女が現れた。黒髪、目は濃い灰色で銀でこそ無かったが、男とよく似た空気を纏っていた。彼らは同族なのだろう。
 女はタオルと着替え、それと湯気の立ったをカップを持ってきた。白いシャツに黒のズボン。正装とは言わないまでも、屋敷の主にはそれなりの格好で会え、という事なのだろうが、啼はそれをやんわりと断った。女も無理強いはしなかったので、彼は装束姿のままでいた。
 体を拭いて落ち着いたところで、女はカップを手渡してきた。受け取ってみると、それは暖めたミルクだった。蜂蜜の匂いがする。
 啼は礼を述べ、改めて女を見た。これはたぶん、ずぶ濡れだった啼に対する、彼女の気遣いなのだろう。
「これ、子供の頃に飲んだよ」
 そう言ってカップに口を付けた。懐かしい味がする。
 啼の様子を見守っていた女は、小さく笑うと「あなたは、私たちからしたら、まだほんの子供だわ」と言った。
 あやすような口調に、啼は思わず苦笑した。
「そう、そういうの——頭では分かっていても、いつもちょっと混乱する」
 素直な感想だった。人とは時の流れが異なる種族に相対すると、啼はいつも不思議な感覚に陥る。特に、人と見分けのつかない種族に対しては。
 彼らには独自の時間や世界があって、啼はそれを守るのも役目のひとつだと思っている。もちろん、お互いが干渉しすぎてはいけないのだが。
 啼が女にカップを返したとき、部屋の扉が開いた。
 狼使いが戻ってきたのだ。しかし、その印象は随分違っていた。
 白いシャツに黒のズボン、先ほど啼が渡されたのと同じような服装。もちろん正装でないだろうが、その姿は執事や秘書といったものを連想させる。とても、あの狼たちを手懐けている庭園の番人には見えない。
 女は狼使いと入れ違いで部屋を出ていったが、去り際に啼にそっと耳打ちした。
「あの方を、よろしくね」
 あの方——。
 啼は問いも答えもしなかったが、小さな笑顔で彼女を見送った。
 そうして彼女が出ていった後、男は改めて啼の姿を見て、小さな溜息をついた。その様子に啼は一瞬だけ済まなさそうな顔をする。
「もしかして、君の主人が煩いのかな」
 装束のままでは嫌がるだろうな、とは啼も考えた。本当に、どうでもいい事に煩い男だから。
 狼使いはそれについて何も答えず、ただ「お前にはお前の流儀があるのだろう」と言って、啼を目で促した。

 その建物は地下の細い通路で屋敷と繋がっていた。倉庫のような部屋へと続く薄暗い階段を上り、古めかしい道具が多く積み重なった部屋を出るとそこは、全くの異世界だった。
 屋敷の内装はそのほとんどが白で構成されている。要所には金銀の塗装が施されているが、ささやかなものだった。壁に絵画の類はないが、大きな窓が目立った。また、所々に大きな鏡が設えられている。これらの大きな窓は額縁のような役目を果たし、鏡は光を反射するために設置されているように思えた。
 そのほかの装飾的なものといえば、百合を象ったランプシェードと、壁に描かれる百合の紋章だろうか。周囲を薔薇に囲まれていたが、この屋敷のモチーフは百合らしい。
 あとで分かったことだが、たしかにこの屋敷は百合がモチーフで、ある特定の種類の百合しか植えないのだという。ゆえに、それが咲かない時期は、白い薔薇などが代わりに植えられる——ということだった。
 啼には様式など分からないが、非常に美しい建物だということは十分理解できた。屋敷の主人には良い印象を持っていない啼だが、趣味を少しだけ見直してしまった。
 屋敷の中は、全体が微妙に明るく、雨の降る夜中だというのに灯りは必要がなかった。灯されたランプは決して強い光を放っているわけではないが、暖かい色をした光が充満している。自分の影もうっすらとしていて、微妙に平衡感覚が失われる。現実と夢の境界に対する感覚が。
 中央の大きなエントランスを通り越し、奧へと進んでいく。啼が上がってきたのとちょうど逆あたりに位置する階段を昇り、二階の廊下に出る。いくつもの白い扉を通り越し、突き当たりの扉の前で狼使いは止まった。
「ここで待つようにとの指示だ」
 扉を開け、中に入るよう指示した。啼は頷いて室内に入っていく。
 四方の壁にかけられた百合のランプと全体を覆う灯りが、それまでの光以上に暖かく啼を迎えた。
 部屋はやはり真っ白だが、ここには窓がなかった。また入り口の扉の向かい側にはもうひとつの扉があり、奥の部屋へ続いているようだった。
 中央には、この屋敷の為に作られたらしい白いテーブルとソファが設えられている。だが啼はくつろぐ気にはなれなかった。
 座る気はなかったが、なんとなくソファに近付いた時だった。
 足音も、気配すらもなかったが、予感がした。入ってきた扉を振り返る。
 と同時に、白い扉が大きく開かれ、金色の髪が目に飛び込んできた。
「君がここを訪れる日が来るとはね!」
 はしゃいだような声。やけに楽しそうな様子で現れたのは、啼よりも長身の西洋人。彼は流暢にこの国の言葉を操った。
 ゆったりした白いシャツに濃い紺色のズボンという出で立ちは部屋着であろうが、素材はいかにも高級そうに見える。
 三十代後半くらいに見えるが、実際の年齢は分からない。知りたいとも思わなかった。
「久しぶりだね、啼。こんな夜分に、僕の館にようこそ」
 啼の目の前でわざとらしく一礼して、軽薄そうな笑みを浮かべる。
 屋敷の主。啼が秘密裏に会いに来た者——外鬼のザークシーズ卿。
 彼こそが混血種の件で「人材」と「場所」を提供した人物だった。

後 編

 長身痩躯、金髪碧眼。外鬼、特に男子は血が濃いほどこの特徴を持つのだが、ザークシーズはまさに「外鬼らしい」容姿をしていた。
 白い空間の中だからだろうか。肌は青白く病人のようだったが、彼自身は頗る活発であった。彼にとってはこの状態のほうが正常なのかもしれない。
「あれから謝罪のひとつもないのに、そんな表情でここに来るんだね……ずるいなあ、君は。郷や仲間のことしか考えてないのかい。なんて身勝手なんだ」
 その笑みは浮薄そのものだった。首を傾げた拍子に長い前髪が顔の右側を覆う。それでも、彼が心の底から楽しんでいると分かった。
「こんな時間に訪ねるなんて非常識だな。君、僕の都合はいつだってお構いなしだね」
 いかにも屋敷の主らしい振る舞いで一人がけの白いソファに腰を下ろした。啼にも横のソファに座るよう指示したが、啼は応じなかった。
 外鬼は、彼らが生まれた地の身分制度を現在も踏襲している。身分は血統によって与えられ、ザークシーズはなかなか高い位にあった。この館に住み、贅沢な暮らしが出来るのもそのためだ。
 通常、高位の者には管理職としての役割がある。財力は血族の維持に使われたり、私設の部隊を持つなど、ある程度の戦力を有するのが通例であった。だが、彼はそうした事柄には無頓着で、戦闘は専ら他人任せだ。強さに固執することもなく、政治的な野心を持っている風でもない。それゆえに狼使いが護衛にいる、という事すら意外に感じた。
 己の楽しみのためには些末なことにも腐心する男——啼はザークシーズをそう捉えている。だからこそ厄介なのだ。
 ザークシーズは改めて啼を観察しながら、長い脚を組み、些か呆れたような声で指摘した。
「僕に会いに来るんなら、もっとちゃんとした恰好をしておいで。何度も言うけど、僕はそれなりの地位にあるんだよ? まったく、戦士やしのびって連中は無粋でしょうがない」
 予想していた通りの反応に啼は呆れた。彼は一体、自分たちしのびに何を求めているのだろう。
「おれは、これが正装なんだ」
 本心を述べたが、相手は嫌味として受け取ったらしい。ザークシーズは「そんなの僕は認めないけどね」と嘲笑うと、「君は相変わらず自分の価値を分かってない」と付け加えた。
「僕はあまり戦士って人種に興味がない……が、君とは末永く付き合いたいと思ってるんだよ。君は郷のしのびの中でもかなり変わってるだろう? 見目もそこそこいいし、それに」
 言って、入ってきた扉のほうへと視線を移す。そこには例の狼使いが立っていた。今はザークシーズの護衛を務めている。
「ムーサとも気が合うようだね。珍しいんだよ、ムーサが初対面の相手に心を開くのは。興味深いじゃないか」
 狼使いはムーサというらしい。確かにこの狼使いには面倒をかけたが、自分に心を開いたとは思えなかった。
 むしろ、彼のような男が—いかなる理由があるにせよ—ザークシーズに忠義を尽くしていることの方が、啼には不思議でならない。
「ケモノ退治に飽きたら、僕のところにおいで。面倒見てあげるよ」
 先ほどまでとは違う人なつこい笑み。だが、啼は拒否するように顔を背けた。
「つれないなぁ」
 ザークシーズは目を細め、喉の奥で笑う。
 耳障りな音を払うように首を振って、啼は青い目を見据えた。
「いろいろと不躾で悪いが、先の約束を果たしてもらいに来た」
 約束、と口の中で反芻し、ザークシーズはソファに深く身を沈めながら「そうだね」と呟く。
「君が僕にとってひどい奴で、どんなに無礼であろうとも、僕は約束を守るよ」
 啼は、お互い様だろう、と心の中で吐き捨てた。
 二人が知り合ったのは偶然だが、啼にとっての不運はザークシーズに気に入られた事だった。陰獣に対して寛容な啼も、忍務であればこの外鬼と本気で対峙する。それも一度や二度ではない。だが、ザークシ−ズの態度は常に変わらない。
 啼は言った。「あなたはここにいる」
「ああ、そうだ。君はとても運がいいよ」
 頷き、顔を上げる。「だからこそ約束は果たさなければね。僕を何度も傷つけた君の話を聞こうか。——さあ、どうぞ」
 ザークシーズは人を逆上させる言葉を好んで使う。反応する必要はない。
 彼の言葉を無視し、素早く言った。
「協定、混血種の件であなたが把握していることを話してくれ」
 啼の冷たい視線に満足した様子で、ザークシーズは深く息を吸った。

「君はどうしてそんなに僕を嫌うかな……重はもっと慎重だったし、表向きとはいえ、僕に敬意すら払っていたよ」
 不意に重の名を出され、啼の目は微かに反応した。
「重は、かわいそうなことをしたね」憐れみなど微塵も感じていない口調で続ける。
「知っていること、か。……ああ、まったく君は運がいいな」
 繰り返される言葉。白く窓のない部屋の中は、激しく降り続く雨音が低く小さな雑音のように響いている。啼は自分の中の平衡感覚が崩れていくような気がして、息を吸い込んだ。
「ところで、谷七は元気かな」
 徐にザークシーズは言った。
「いや、元気なはずないな。ひどい怪我だっていうし……もしかして、死んだ?」
 啼が小さく首を振ると、ザークシーズはふうん、と、さして面白くなさそうな様子で続ける。
「そう。……いや、良かったか。重はともかく、谷七は結構面白いよね。素直で」
 彼にとって重は興味の対象外なのだろうか。啼の憮然とした様子を確認してから、ザークシーズはソファに身を沈めたまま、静かに語り出した。
「まず。僕が例の事件に関して知っているのは、重が殺されたこと、谷七が怪我したこと。把握している事実はその二つ。二人を襲撃した者については、僕より君の方が正確な情報を持ってるだろう。……聞いたんだろう、谷七から。谷七があいつを見間違うとも思わないしね……」
 忌々しげに言い捨て、小さな溜息をつく。彼は重を殺害した者が誰か、知っている。
 そしてまた、啼も知っていた。郷ではその名は伏せられていたが、啼は谷七、そして五条から密かに聞かされたのだ。
 しかし、啼には復讐心や強い憎悪は浮かばなかった。なぜかは分からないが、重がもう十分な役目を果たしたような気がしていた。一方ではそう感じる自分自身に戸惑い、啼はこのことについてあまり考えないようにしている。
 ザークシーズは続ける。
「つぎに——重がいつすり替わったのか、僕は知らない。……怒らないで欲しいが、僕にとって重は本当にどうでもいいしのびだった。もちろん、立ち居振る舞いも文句なく、戦士としても素晴らしいことはよく分かってる。だからこそ、重には機械の人形みたいな印象しかなくてね。出来すぎてるんだよ。彼には暴きたくなるような謎もないし、とにかく興味の湧かない相手だったな。
 それでも、最期に彼がしたことを、僕は誰よりも評価しているつもりだ。辛抱強い郷のしのびが忍務の最中に感情に支配されるなんて、まず有り得ないと思っていたからさ」
 そこで一旦言葉を切った。彼の視線は啼に向いているが、どこか遠くを見ていた。
「ともかく、あの頃の僕に興味があったのは、君たちしのびの血が混ざった一族がどうなるのか、って事だけだったよ。君たちにとって混血種は武器や脅威となるかもしれないが、僕たちからすれば人との混血が弱体化の一歩だということは、容易にわかるだろう? いままでも混血種がいなかったわけじゃないんだよ、人と本当の恋に堕ちてしまう、そういう血族もいたんだ、偶に」
 その言葉には幾分かの蔑みが含まれていた。彼にとって、人は玩具のようなものなのかもしれない。
「だけど、彼らの子供は不完全な事が多かったし、何よりも混血種の体は脆く、肉体的な欠損を持つことも多い。理由はわからないが、きっとバランスが悪いんだろうな。稀に特別な力を持つ者も現れるが、それが僕らに有効に働くことはほとんどない。だって、彼ら混血種の命はとても短い事が多いんだ。一瞬しか存在しない特別な力は、安定して供給されなければ混乱の元にしかならない……そういう存在を、一族としては認められないね。
 それに……啼、僕はね、人に属せず血族からも疎まれるって、生きるには随分不幸な境遇じゃないかと思うんだよ」
 完全に同調できるわけではないが、彼の言うことも理解できた。
「ある時から僕らは、暗黙の了解として混血を禁忌としていたが、なぜだと思う? 血族とその誇りを守るためだけじゃない、僕らなりの礼節だ」
 啼は思わず訊ねた。「なら、どうして」
 この協定について、啼はかねてから疑問を抱いていた。自然発生的に存在した混血種とは違い、この協定の混血種は互いへの牽制という以前に、ただの実験ではないか、と。啼がこの件で強く抱いたのは嫌悪感であった。
「……まあ、僕らにも好奇心があった、って事かな」
 ザークシーズは体を起こし、白い指先で啼を差した。
「君たち郷者はふつうの人とはまったく違う。君たちは血ではなく状況、環境で力を身に付けているだろう? 僕らのように血を重んじている訳ではない。僕たちとは力の発生が全く異なる。外的な力を内に取り込んでいるのに、なぜ君たちは闇に対して有効な術を使えるんだ? どうしてケモノ退治ができる? 海を渡ってきた僕たちと協定を結ぶまで追い詰める事が出来たのはどうしてだい? ……人なのに陰獣と渡り合える時点で、おおいに不思議じゃないか」
 この問いに答えられる者はほとんどいないだろう、と彼は思う。目の前にいるしのびが答えることはまず無理だ。もっとも、回答を得たとして、自分が納得できるとは彼も考えていない。
 謎というのは大抵そんなものだ。
 口を噤んだままの啼に微笑み、一度咳払いをした。
「浅慮としか言いようがない。協定のあの項目はね、互いにとって辛いものだったと僕は思う。とはいえ、これはこれで面白い。だから僕は名乗り出たんだ。いくら権力に影響するといっても、普通は血を穢されることを何よりも嫌がる。特に自分に近い血族を差し出すなんて抵抗があるしね…この件に関しては僕が適任だったと思うよ。だって、僕はヨアンナの、血族らしくないところがかわいそうだとずっと思っていたんだからね」
 ——ヨアンナ。
 啼がその名を聞くのは初めてだった。協定の子供を身篭ることになった外鬼の女の名前。なぜか、誰も口にしなかった。谷七、五条すらも啼に名を告げなかった。郷の誰もが、彼女をどう語るべきか分からなかったのかもしれない。
「強い意思表示はしないが、芯は強いし母性愛に溢れる気立てのいい娘だ。もっとも、あまり頭の回転がいい方ではないけど……だから、伴侶がいたほうがいいだろうとは考えていた。彼女は優しすぎて、どこか人に近くて……同族ではなく、君たちの誰かなら彼女の伴侶に適任だろうと判断したんだ。彼女を指名したのは僕なりの配慮なんだよ」
 ヨアンナはザークシーズの遠縁で、血族だが身分が低くこの館で働いていたという。彼がヨアンナの事をどこまで本気で考えていたかはわからない。神妙な口調だが、顔には下世話な好奇心が浮かんでいる。ザークシーズが自身の好奇心のために彼女を差し出した、という方が余程自然な気がして、強い嫌悪を感じたが、啼はそれを表情には出さなかった。
 啼が口を開こうとしたときだった。満面の笑みを浮かべ、ザークシーズは言った。
「残念ながら、僕の許にはもういないんだよ、ヨアンナ。ここにはいない」
 ここにはいない。
 予想はしていたが、この先の事を考え、啼は小さな溜息をついた。
 改めてザークシーズを見据え、啼は問う。
「今はどこに?」
「単刀直入だね。もうちょっと遠慮したらどうだい?」
「手短に、と最初に頼んだろう」
 啼は吐き捨てるように言った。
「おれは、それを知るために此処に来た」
 予想すらしていなかった、という表情。「そうか、そこまで詳しく君に教えるんだ、僕は」
「あなたはおれにそうする義務があるはずだ」
「まあ、たしかにそうかもしれないな」
 そう答えてはいるが、明らかに不満そうな様子だった。肝心なところになるといつもこうだ、と啼は心の中で悪態をつく。
 ザークシーズは少しの間視線を泳がせていたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「ねえ、啼。ここから先は約束以上の内容が増えるし、きっと僕は君にたくさんの協力をするだろう。でも、それは僕だけでなく、僕たち一族にとっても不利益な事かもしれない。……だから、僕と君の間で約束をしようじゃないか。それで手を打ってあげる。
 君は、僕のために何かしてくれるかい?」
 柔和な笑みを湛え、啼をじっと見つめた。
 それは、彼がとても美しい容姿をしていると否応なしに認識させられる笑みだったが、啼にはひどく不快なものに見えた。
 目を見据えたまま、啼は静かに答える。
「死ぬこと、殺すこと、郷を裏切ること。それ以外のある程度なら、やらないこともない」
 約束できる範囲は限られているが、それでも十分すぎる。
 途端、ザークシーズの目が輝いた。
「さすが決断が早いな。啼、今の言葉は本当だね?」
 念を押す。啼は小さく頷くと
「ああ、約束しよう」
 不本意だが、という言葉を心の中で付け加えた。
 満面の笑みを浮かべて、ザークシーズは扉の脇にいる狼使いを振り返った。
「聞いたね、ムーサ」
 狼使い・ムーサは表情ひとつ変えず、深く頷いた。彼は立会人というわけだ。
 思わず、啼は小さな溜息を漏らした。
 陰獣はしきたりや約束を非常に重んじるが、個別に交わされた約束は絶対的な効力を発揮する。それは実質的に契約と呼べるものであり、啼は今まさに、ザークシーズと契約したのだ。
 最初から、この契約のために遠回しに語り、愚図って見せたのかもしれない。だから厄介なのだ、この男は。
   それでも、啼は従うしかなかった。

「よし、いいだろう。——君に貸しが出来るとは、なかなか気分がいい」
 そう言って笑うザークシーズに、啼は釘を刺す。
「出来るだけ正確に。あなたは一族の中でも特別だろう」
 その言葉にザークシーズは眉根を上げ「へえ、そんなふうに評価してくれてたんだ」と言った。
「評価じゃない、事実を言ったまでだ。とにかく、出来るだけ手短に、正確に」
 ザークシーズは片手を上げて啼の言葉を制した。
「わかってるよ。適当なことをいうとすごく怒るからね、君」
 ふざけた様子を無視して、啼は無言で先を促した。ザークシーズは小さく肩を竦めると、改めて啼に向き直り、ようやく本題に入る。
「君が今ここにいるってことは、それなりに情報を集めて来たって事だよね」
「一応は」啼は答えた。「だが、今夜が戦士長の集いだ、ということくらいしか分からなかった」
 啼は素直に言った。戦士長は郷者でいえば各部隊の隊長であり、もっとも優れた戦士たちである。戦士長は武力を司る、文字通り戦士の長たる存在だ。
 そして、外鬼の要とも言える存在だった。
「へえ」ザークシーズは少し意外そうな顔をした。「会合って身内でも知らないやつが多いんだよ。結構な内緒事なのに、君には筒抜けなのか」
「知ったのは本当に偶然だ」
 諜報活動は啼の得意とするものだが、この件は外鬼の諜報を専門に行う、あるしのびから得た情報だった。そのしのびは単独で行動しているので所在がつかめないことが多い。啼が彼女に会えたのは幸運といってよかった。
「ふうん。まあ、そういうことにしてあげよう」
 言葉とは裏腹に、好奇心を一切隠そうとしない青い目。だが、彼はそれ以上追及せず、話を進めた。
「君も気付いたろうが、いまこの館へは、それなりの手続きを踏まないと入れないことになっている。普段、夜にムーサと狼たちに見回りを頼むようなこともないし、庭園にあんな術を使うこともないんだ。僕らにも負担だが、これは人にとってとても危険な事だからね……でも、今はまだ、あの時と同じままになっている」
 あの時——協定「混血種」の項目が開始された1年前のことだ。たとえ形式的であっても、厳戒態勢を布かなくてはならなかったことは容易に想像が付く。
「君は、この館にヨアンナがいる、と思ってたんだよね」
 ザークシーズの問いに、啼は「いや」と首を振る。
「分からなかった。だからここに来たんだ。移動した痕跡も情報も見つけられなかったが、あなたはとても用心深い。誰に対しても」
「そんな言い方……僕に信用がないのか、それとも評価されてるのか、わからないじゃないか」
 小さく舌打ちしたが、その表情は満足げだった。
「それで戦士長の動けない今夜、ってわけか。僕がこの館にいてよかったね」
 彼は肘掛に手をついた。
「ねえ、啼。君はうちの妹とは直接会ったことある?」
 悪名高い女戦士長ウルスラ。ザークシーズの妹だが、二人の仲は最悪と噂されている。啼は首を横に振った。
「それは良かった。出来れば、死ぬまで会わないほうがいいよ」
 大きく溜息をつくと、ザークシーズは不愉快な表情になった。
「こっちにも、君みたいに生真面目で、とてもお節介な男がいるんだよ……もちろん君とは違って、やっぱりちょっとおかしいとは思う。僕の一族って大抵どこかおかしいと思わないかい? あんまり長生きするとろくなことにならないよね」
 啼にしてみれば、ザークシーズこそがその代表という認識なのだが、彼自身にはあまり自覚がないようだった。
「そいつは、うちの妹と頗(すこぶ)る仲が悪い。妹と同等の力があって、しかも相当な権力を継ぐ立場にある。だから妹も簡単に手出しできる相手ではない、と。……そいつは重の死をひどく悼んでね。重が死んだ直後に、こっそりこの館に来た。そして、僕の許では危ないとかいって、彼女を浚っていっちゃったんだよねぇ」
 戦士長ウルスラが認める相手。話を聞く限りでは、外鬼にしては珍しく良識があるようだが、厄介な相手には違いない。
「重を随分と気に入っていたみたいだからね……色々、思うところがあったんじゃないかな。僕はあいつと重の死を悼む気もなかったから、詳しくは知らない。
 なんていうか、あいつは感傷的でロマンチストなんだよ。夢想家と言ってもいいだろうねえ」
 いつになく小馬鹿にした口調。彼の妹だけではなく、彼自身もその者を疎んじているようだった。
「今夜の会合でも混血種の話は出るだろう。もっとも戦士長には協定に関しての決定権はないけど。妹は僕と違って混血種に嫌悪しか感じていない。あいつは血に拘っているし、血を穢されることを嫌う。戦士長にはそういう考えのやつが多いから、奴らが実際に動くことはなくとも、基本は妹に協力的だろうね」
 外鬼同士の確執に巻き込まれるだろうと、ある程度は予想していた。だが、話が大きすぎる気がした。外鬼の戦士長といえば外鬼の中でも桁外れの戦闘力を持つ。もし複数と対峙するような事にでもなれば、啼が生きて帰れる保証はないだろう。
 この男だけでも厄介なのに、啀み合う戦士長二人が関わっているとは——啼は思わず舌打ちする。
「そう心配しなくていいよ。君は運がいいんだからね」
 ザークシーズは落ち着いた様子で、再びその言葉を口にした。
「どうして」
 宥めるような語調に、啼は僅かな苛立ちを覚えた。情報を後出しにしてこちらの様子を楽しんでいる、そんな回りくどさが神経に障る。
 啼の感情的な表情に満足した様子で、ザークシーズはゆっくりと語り出す。
「妹は近々この館に来るだろうが、ここにヨアンナはいないし、妹はどこにいるか把握していない筈だ。僕も今のところ、それを妹に言うつもりはない。場所が分かったとしても、ヨアンナは妹の嫌う男に保護されている。それも手出ししづらい相手の許に。僕の許にいるよりずっと安全じゃないか。
 あの男はね、僕らの中ではかなり珍しい平和主義者だ。重を気に入っていたからこそ、わざわざ苦手な妊婦を自分の許に連れ帰った。でも、あいつがヨアンナの子供を育てるとは考えにくい。おそらく、それなりの手続きが済むまでヨアンナが無事であれば、その後は彼女を郷に引き渡すつもりなんじゃないか? だから、君が彼の許から彼女を連れ出すのは、さほど難しい話じゃないだろう……たぶんね」
 その話が本当ならば、確かに啼はさほど苦労する必要はない。
「それはつまり——」
 瞬きを繰り返す啼。ザークシーズは歪んだ笑みを浮かべた。
「君は、きっとあいつに気に入られる。君は運がいい、と僕は何度も言ってるだろう」
 そう言って、ついに笑い出した。
 これは、彼の悪趣味な遊びだ。啼を暇つぶしに付き合わせ、新たな契約を結ぶ事も目的だっただろうが。
 くだらない。どこまでもくだらない——。啼は、怒りを通り越し呆れていた。
 ひとしきり笑った後で、ザークシーズは立ち上がると啼の傍らに立ち、その肩に手を乗せた。特殊な素材で出来た装束ごしでも、彼の手がいやに冷たい事が分かった。青い目が薄茶色の目を覗き込む。
「お詫びに、あいつの許まで送り届けてあげよう。でも、もしも妹に見つかったら、そこから先は君一人でなんとかするんだ。僕は戦士長たちと余計な諍いを起こしたくない」
 不本意ではあるが、この男の協力がなければヨアンナへは辿り着けない。啼がこの申し出に乗らざるを得ない事を、ザークシーズはよく心得ている。啼はザークシーズを睨み付けた。
「協力すると言っただろう……僕は約束を守る男だ」
「手短に、と言ったはずだ」抗議したところで、反省するはずもないが。
「重要な事を語るのに、多少長くかかるのは仕方のないことだよ。有益な情報がたくさんあった筈だ、たぶんね」
 そして、ザークシーズは顔を上げた。
「君を送るのは日が沈んでからにしよう」
 啼の肩から手を放すと、天を指差した。
「もうじき夜が明ける。陽の光がある間、僕らはその秩序を乱すことはない。たとえ君のためでも、それを変える気はないよ。それまで君は、この館で大人しくしているんだ。どんなに不満でも従いたまえ。いいな」
 多くの陰獣は陽の光を苦手としているが、ザークシーズの場合、それが弱点という訳でもないだろう。不満ではあるが、反論する気はなかった。
 啼が何も言わないので納得したと受取り、ザークシーズは満足げに頷いた。
 外鬼と郷者が微妙な時期、敵陣とも呼べる場所で動く。出来るだけ波風は立てず、目立たずに事を運びたかった。
 頼るべき相手がこの男しかいないのは心底不満だったが。
「ところで、啼」
 急に呼びかけられ、啼は顔を上げた。
「それはそれとして、館の中では僕に従って欲しいんだが」
 あまりに唐突な言葉に、啼は一瞬何を言われたのか分からなかった。
 ぽかんとした表情でザークシーズを見つめていたが、意味を理解した途端、露骨にうんざりした表情をする。
「……こんな時に、なにを」
「館の主が誰か分かってるんだろう」
 言葉を遮られ、啼は深い溜息をつく。そんなことまで従うと言った覚えはない。笑みを浮かべる男を睨んだ。
「ああ、また。まったく、僕のことを嫌いすぎだ。ちょっとは感謝しようよ」
 啼はふと、今回のことはこの男の筋書き通りに進んでいるのではないか、と思った。どこからが彼のゲームかは分からない。ザークシーズはすべてを制御してはいないが、最初から何かが起こる事を期待していたはずだ。そのために駒を用意し、成り行きを傍観している。そんな気がしたのだ。
 そうだとしても、啼はやらなければならなかった。重のためにも。

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