一章

一章

 この世界は、陽光の恩恵を受ける者達だけのものではない。
 闇の中にも平等に世界は広がっている。
 郷の者達は、闇に馴染む者たちだ。彼らは「陰獣」——いわゆるあやかし・妖怪とも呼ばれる、人ならざるものたちの世界に深く関わっていた。人の世と陰獣たちの住処、どちらがどちらをも脅かす事ないよう。陰陽の均衡を保つこと、それは彼らの役目だ。
 彼らがなぜそのような役目を負うのかはわからない。彼ら特有の忍術—術式—が使えることも大きく関わっているのであろう。しのびという事を差し引いても郷者には謎が多く、彼らは他の流派からも畏れられている。
 彼ら郷者が一体何者に仕えているのか、知るものはほとんどいない。秘められた過去に何があるのか、彼ら自身が語ることもなかった。しかし、彼らは独自の方法で陰獣と語り、闘う事が出来る。そう知っていればいい。それが郷者というしのびだ。

 郷者の組織は大雑把に、ひとりの長老と、九人の隊長が統べる九の部隊によって構成されている。一から九の部隊の中でも実働隊となるのは、伍隊・捌撃隊・玖真隊の三つだが、特に伍隊はすべての基本となる部隊である。郷者特有の術式は使えないが、体術を基本とする最もしのびらしいしのび達の部隊だ。
 ある時、伍隊の隊長が病で急死した。唐突な死から一月後、隊長には副隊長ですらなかった五条が据えられることとなる。
 本来なら経験豊富な年長者が継ぐべき役職なのだが、五条の人を統べる能力は誰もが認めるところだった。その頃、ある事情から相応の年齢の者に適当な人材がいなかった事もあるが、それでもこれは異例の人事であった。
 二十八という若さで五条が隊長に赴任し、四年。
 その夏の終わり、郷の上層部にある重要な問題が持ち上がった。

 月に一度、隊長格と長老によって行われる定例の会議。その席で長老は言った。
「交配種を作る期日が迫った。鬼からは女を、郷からは男を」
 まるで人間のことではないように聞こえる言葉。それが『外鬼』との協定を示していると五条が悟るのに、少しの間が要った。
 張りつめた空気の中、変わらぬゆっくりした口調で長老は続ける。
「誰を選ぶかは任せる」
 顔の半分を多う黒い頭巾とその影で、長老の表情は読みとれない。
 長老は、『長老』という役目を負ってからずっと、顔を明かすことがなかった。
 だから、五条は長老の素顔や詳しい素性を知らない。今の長老がいつからその任に就いているかも。知っているのは、衣から出た皺だらけの手と、小さくてもやたら通る声。それで十分だった。
 その声だけが響く空間で、みな外鬼との『協定』を思い浮かべていた。
 誰も何も言わない。重苦しい沈黙の後に、長老は更に小さな声で言った。
「十年のうちに決行しなくてはならないのを、今日まで延ばしたのは私の責任だ」
 言葉とは裏腹に、声から感情を読みとることは出来なかった。
 長老にも後悔の念はあるのだろうか。五条にはそれすらわからなかった。

 郷者が「外来種」と呼ぶ陰獣がいる。
 「外来種」——土着のものでなく、この百年ほどで海を渡ってきた、いわば外国の陰獣達だ。
 もちろん、外国の陰獣は今までも存在した。渡ってきた個々の陰獣も少なくないし、土地に定着したものもいる。だが、そういった「平和的な」陰獣とは違い、明確な意志と目的、そして組織を持ち、人だけではなく土着の陰獣たちの脅威となりうる種族を示している。
 なかでも、血族の結びつきが強く、強大な組織を持つ種族は大きな脅威だった。不死の如き肉体と高い戦闘能力を持つ彼らは、陰獣だが姿形を含め、人との境界がとても曖昧だ。純血種であれば長身痩躯、均整のとれた外観に高い知性を備えている。まるである種の理想を体現しているようにも見えるが、彼らは欲望に忠実で、とても残忍だった。
 闇を自在に闊歩する陰獣達すらをも脅かす存在。彼らの血は陰獣を殺し、人を陰獣に変えてしまう。
 郷者は彼らを「外鬼」と呼んだ。遠方からの災厄。不治の病を患った、恐るべき血族。
 はじめ、郷者と外鬼は激しい対立関係にあった。外鬼はこの地の闇を侵し、土着の陰獣たちを蹂躙していった。郷者は均衡を保つためにも闘うことを選んだ。しかし、陽の世界でも活動する外鬼は簡単に排斥できる相手ではなく、外鬼にとっての郷者もまた同様に厄介な相手だった。
 戦いは激化した。双方に大きな損害と打撃をもたらし、長く続けば互いに消耗するだけだとそれぞれが認識した。
 だから彼らは「協定」を結ぶことでこの戦いに終止符を打ったのだ。
 平和的とは言い難いが、平穏のため彼らは協定を結び、それを守ることを選んだ。
 協定の中に「混血種」という項目がある。
 協定締結から十年のうちに一度「交配」し、混血種を作る、というものだ。
 それは郷者の提案で加えられた項目だった。本当のところ、外鬼も郷者も「混血種」など必要としていない。混血種は混乱を起こす火種であり、血統に重きを置く外鬼からすれば屈辱的な申し出に他ならない。
 しかし、彼らはこの申し出を受け入れた。自分たちの血統を暴く手がかりになるかもしれない事も承知した上で。
 郷者にとってもリスクの高い提案だった。思惑通りに進むとは考えにくいし、何よりも不確定要素が多すぎる。だが、どうしてもやらければならなかった。外鬼と「共存」するためには、彼らの情報を増やさなくてはいけない。
 決行まで十年かかったのは、様々な事情があったのも確かだが、お互い実行を躊躇っていたのかもしれない。
 それでも。この協定は守らねばならない。平穏のためにも、避けては通れないのだ。

 決まってから、すべてが秘密裏に行われた。郷者と外鬼、どちらも、いつも以上に慎重に事を運んだ。
 郷者から提供する男の選定。年齢や健康状態、家族構成ほか、様々な要素を考慮した結果、二十七歳になる捌撃隊の谷七が候補となる。
 彼に決まったのは、捌撃隊の隊長が強く推したからだ。捌撃隊には独自の研究機関があり、捌撃隊の現隊長はその研究機関の出身だ。彼らの思惑が大きく働いているのは明白だったが、その件について五条は特に文句もなかった。なぜなら谷七は最も「適任」と思えたからだ。当時、恋人もなく、独り身だった谷七は親族も既になかったので、もし最悪の事態が起こっても、哀しみは最小限に抑えることが出来る。
 五条も郷者の幹部としてどういう選択をすべきか、一応理解していた。心情的にはどうあれ、この選択はさほど間違っていないはずだ。そうでなくてはならない、と。
 捌撃隊のやり方に苦言を呈するがいない訳ではなかった。谷七が問題なのではない、捌撃隊の研究機関に不信を抱いているのだろうが、同じく術式を司る部署・玖真隊(きゅうしんたい)の隊長が何も言わないので、結局他の者達は黙るしかなかった。
 そして、谷七も拒まなかった。
 隊長たちの集会所にもなる大きな館の最奧、長老の書斎に呼び出され、谷七は話を聞かされた。それが今まで命じられたどれよりも重要な忍務であることはすぐに理解した。当然のように、彼はなんの躊躇もなく引き受けた。
 忍務を拒否するなど、谷七に思いつくはずもないのだが。谷七も外鬼の脅威を知らぬ訳ではないが、彼には強い恐怖を感じるほどの記憶はなく、躊躇する理由にはならなかった。それに、外鬼に興味がないと言えば嘘になろう。
 郷者が提供する男は捌撃隊の谷七。そう決まった。

 五条は役目上、この時期の谷七と何度か話す機会があった。
 言葉遣いは多少乱暴だが、谷七は至って真面目で、想像していたより従順な気質だった。また、義に篤い印象を受けた。
 秋の初め。五条の自宅に呼び出された谷七は、やたらに散らかった書斎の片隅で、居心地悪そうにしていた。普段の五条の様子からは全く想像がつかない書斎に、些か戸惑っている様子だった。
「伍隊からひとり、護衛を出すことになった」
 五条は、戸惑っている谷七に気を配る様子もない。構わず続けた。
「なにかあったら、かならずその者を頼って欲しい」
 谷七は少し不思議そうな顔をした。 「最初から護衛が出ることは決まっていたんじゃ…」
「うん、まあ、それはそうだな」五条も頷く。「ただ、伍隊(うち)とは決まってなかったからな。玖真隊(きゅう)あたりが妥当って流れだったのを、色々とね」
 そう言って笑った。
 少し呆れたような、感心したような顔で谷七は五条を見直す。何か言いたそうだが、躊躇しているようだ。
「今は個人的に呼び出したからな。気にすることないぞ」
 五条の言葉に苦笑して、谷七は表情を緩めた。
「あんたがそんな、前に出ていく方だとは思わなかったよ。見くびってたな、悪い」
「若さ故の特権は、使えるときに使わないとなあ」
 五条が伍隊から護衛を出したかったのは、谷七に何かしてやれることはないのか、という心情的な部分も大きかった。自分が関わることで、少しでもこのことの方向を変えたかったのかもしれない。谷七だけではなく彼らは単なる素材ではないのだ、と。偽善的だろうか、とも思ったが、深く考えないことにした。後悔することになっても、何もしないよりはいいはずだ。
 五条は多くを語らなかった。谷七がどこまで五条の想いを理解したかはわからないが、それなりに納得しているようだった。
「でもよ」谷七は神妙な面持ちで溜息をつく。「護衛がつくっていうのも、なんだか気まずいよな」
 唐突な言葉に、五条はちょっと面食らった。「え? 何だって?」
「ええと、だから…」
 言い淀む谷七の姿に、五条はようやく気が付いた。
 身長は平均的、すらりとした体型。決して女受けしない顔という訳でもないが、どこか取っつきにくい雰囲気があった。また、正義感が強いせいで、少し喧嘩っ早いところもある。それに、目つきが鋭いので、普通の表情をしていても「怖い」と言われているかもしれない。
 そんな谷七には硬派という言葉がよく似合う。だからかはわからないが、彼は恋愛経験が豊富なほうでもなく、体を使う間者のような忍務を行うタイプでもなかった。
 彼にとって、今回の忍務に護衛がつくのは、かなり気恥ずかしいのだろう。
 五条はおかしくなった。
「それはまあ…そうかもな」
「おい、笑うなよ」
 微かに肩を震わせる五条の様子に、谷七は途端に不機嫌になる。「笑いたきゃ笑えよ」目にかかった前髪を掻き上げて、ふいとそっぽを向いた。
「うん、そうだな、すまん」
 笑いがおさまった後、五条は暢気な声で言った。
「なあ、谷七。いい相手だといいな。お前にとっては嫁さんみたいなもんだから」
 その発言に、谷七は驚いて振り返る。
「そういう言い方したのは、あんたがはじめてだよ」
 すこし面食らったようだったが、表情に不快感はなかった。
「だろうな」いかにも温厚そうな五条の笑顔に、少しの皮肉が滲む。「俺はまだ、道具みたいに扱えないんだ。口先だけも合わせればいいんだけどな」
 本心だった。谷七は言葉に詰まる。
「聞かなかったことにしとく」
 ようやく出てきたのは、そんなありきたりな言葉だった。谷七は自分の機転の利かなさに舌打ちする。五条はさして気にも留めていない様子で、「ありがとう」と言った。

 十月。協定に定められた「混血種」の項目が実施された。
 外鬼の女の元へ、郷者の男—谷七が通う、という形をとっていた。郷から遠い、大きな都市の一角に存在する外鬼・ザークシーズ卿の領地に、女の住まいがある。そこへ通うのだ。
 ザークシーズ卿はいかにも外鬼らしい美男子だ。金髪碧眼、長身痩躯——その外見に違わず、享楽的な男だった。彼は役立たずではなかったが、ほとんどの局面で役に立とうとはしない。非協力的な彼がその地位を脅かされないのは、戦士長のひとりである妹・ウルスラの功績とも言われている。もっとも、彼ら兄妹の仲は最悪だったが。
 多くのことに非協力的な彼が今回人材を提供したのは、小さな気紛れのように思えた。妹へのあてつけかもしれない。彼の行動原理は、そのくらい些末な事が多い。
 ザークシーズ卿の遠縁にあたる女は外鬼の純血種ではあったが、地位は低く、女中のような役目であったらしい。らしい、というのは、正確な情報を得ることが出来なかったからだ。女は外鬼が使う古い外国語を使い、この国の言葉はあまり理解していなかった。
 この領地へは、郷者は最低限しか入る事を許されなかった。選ばれた谷七と、五条が選んだ護衛。その二人だけだ。
 一月に一、二回。懐妊と分かるまで数ヶ月の間、谷七と護衛は女の元へ通った。
 その間何があったのか、正確なことは分からない。もちろん二人には報告の義務があり、外鬼に関して分かること、調べられることは可能な限り調べていた。
 だが、敵である彼らに敷地内での自由はない。谷七は最低限知り得た事柄があまりに僅かなので、些かもどかしい思いをしたが、それは護衛のしのびも同様だった。
 五条が選んだ護衛——重ですら。

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