五章  前編後編

五章

前 編

 空は昨日よりも暗く、庭園の緑は青黒い染みのように滲んで見える。
 連日の雨で、庭園を散策する者は一人もいなかった。
 雨に沈む庭園から視線を移し、啼は改めて館を見上げる。白百合の館は薄暗い雨の中でも美しさを損なわなかった。館の中にはザークシーズをはじめ、幾人かの使用人がいるはずだが、姿はおろか気配すら感じられない。
 こちらからは見えない場所から、あの浮薄な笑みを浮かべて自分を見下ろしているのだろう。気に入らないが、ザークシーズは今、唯一の協力者だ。彼の手引きがなければ、核心へは到達できない。
 湿気た空気を大きく吸い込んでから、啼は館の裏手へと戻った。
 裏手には庭園を南北に分ける道路へ続く私道がある。裏口の前には、黒い車が一台止まっていた。街でよく見掛ける車種で、黒は特に人気が高い。運転席には既に黒い上着を羽織ったムーサが座っており、建物の影から現れた啼に気付くと、目で乗るように指示する。
 裏口に戻った啼は借りた傘を畳み、戸口に立て掛けた。些か暢気にも見える様子で雨具の水気を払っていると、裏口の扉が開き、あの少女が現れた。服と同じ白の傘を持った少女は啼を一瞥したが、ふいと目線を移し、足早に車の後部座席へ滑り込んだ。大きな犬——いや、狼——と共に。
 ザークシーズに案内役を命じられた少女、マリー。彼女はひどく不機嫌な顔をしていた。その足元に蹲ったのは、群れのリーダーと思しき狼だ。少女は狼を怖がってはいないが、疎ましげに睨んでいる。
 狼の事はともかく、先程の様子から、どうも自分は嫌われているらしい。心当たりはないが、郷者というだけで人外の存在から倦厭、牽制されるのはよくあることだ。
 世話になる少女の機嫌をこれ以上損ねたくはなかった。啼はなるべく静かに隣に乗り込んだ。
 扉を閉じた瞬間、車は静かに動き出した。後部座席に二人と一匹を乗せた車は、雨の私道を滑るように走る。裏門は既に開いていて、門の横にはムーサと同じような服装をした使用人が傘を差して立っていた。
 不思議なことに、啼はこの男の顔を覚えることが出来なかった。ザークシーズの使用人には、人や、陰獣ですらない者が紛れているのかも知れない。車が脇を通る時、一礼した使用人の顔は傘に隠れてほとんど見えなかったが、口元は歪んでいるように見えた。
 少し走ると、庭園を分断する道路に出た。歩く人の姿がないのは予想していたが、すれ違う車もなかった。普段から交通量が多いとは言えない場所だが、今日は一段と静かだ。
 薄暗い車内で、昨晩と同じように、啼は雨音へと意識を傾ける。くぐもった音の中で、一時間ほど前の会話を思い出していた。

「さて。時間もないことだし、手短に済まそうか」
 啼とマリーを引き合わせた後で、ザークシーズは言った。
「君には特別に教えてあげよう。僕ら種族の誇りたる戦士長たちの、独自のしきたりについて」
 傍らのマリーが顔を上げ、無言でザークシーズに何か訴えている。だが、彼はそれに応じず、彼女の頭を撫でた。
「戦士長たちは、彼らの強さを称えられると同時に、戦士としての模範を求められている。当然、行動にはいくつかの制限がある……たとえば、無駄に血を流さないために、とかさ」
 そう言ってザークシーズは嘲るような笑みを浮かべた。いかに結束の硬い種族といっても、攻撃性の高い外鬼だ。禁じられていても、同族内部の確執や争いが繰り返されているであろうことは容易に想像が付いた。もっとも、そうした諍いは外鬼に限ったことではないが。
「自分の領地で何をしようが勝手だが、誰かの領地——特に、戦士長同士の場合、互いの城、住居を訪れる場合、一人以上の部下を連れて動いてはならない、とされている」
 ザークシーズは一旦言葉を切る。
「場合によってはどこかに複数の部下を待機させる事もあるかもしれないけど、彼らのプライドがそれを許さない。だから、大抵の戦士長は一人の、出来の良い部下を連れて歩く。戦場以外では、彼らは案外大人しいんだよ」
 それだけのことだけどね、と笑って、啼の顔を改めて見た。
「向こうに着くまでに最悪の事態が起こったとして、相手にするのは二人」
 その言葉に、ザークシーズは意地悪な笑みを浮かべる。
「えらく簡単に、二人、なんて言うね。随分と自信家なんだな、知らなかった」
 彼の言うことはもっともだ。この情報が朗報とは言い切れないのは、啼が一番良く分かっている。戦士長が模範的な戦士とは限らない。彼の妹がそうであるように。
「……部下には、戦士長を御する役目もあるんだろう」
 溜息をつく啼をザークシーズは満足げに眺め、笑った。
「ま、何を最悪とするのかは別だが、君の言うとおりだ。でも、君の逃げ足は速いし、マリーもいる。きっと大丈夫だよ」
 そう言って少女の頭を撫でる。少女は相変わらず何も言わなかった。彼女が見た目通りの子供ではない事は分かるが、戦闘に向いているとは思えない。流石に彼女を頼る気にはなれなかった。
 それ後、ザークシーズは簡単に段取りを語った。非常にシンプルで、作戦と呼べる物はひとつもなかったが、それで充分だった。
 話が終わり、啼が部屋を出ようとしたときだった。ザークシーズは啼の背中に声を掛ける。
「僕の妹は自由人でね、一人で行動することもある。誰かがいないと厄介を起こすから本当に困るよ。なにしろ、血を分けた兄妹ってだけで、僕に尻ぬぐいが回ってくるんだから! まったく、勘弁して欲しいね」

 ザークシーズ特有の笑い方を思い出し、啼は軽く咳払いをする。気分を変えるように窓の外に視線をやると、昨晩啼が車を降りた場所にさしかかっていた。そのあたりには柵に寄り添うように傾いた楠があるのだが、そこには黒い傘があった。
 木の下に、黒いジャケットを着た背の高い男が立っている。ちょうど木の陰になるから、雨宿りをしているように見えなくもない。
 車は男の横を通り過ぎる。それは若い外国人だということが分かった。道路に背を向けているので顔は分からないが、薄い金色の髪は黒い傘の下でも目立った。
 男の姿が見えなくなるほど進んでから、ムーサが口を開いた。
「あれは、妹君の四の剣だ」
 ザークシーズの妹、戦士長ウルスラ。やはり、彼女は動いていた。
 外鬼はそれぞれの部隊の中で部下に格付けを行っている。一を隊長とし、以下実力毎に位が決まる。大抵は十位前後まで決定している、と啼は聞いていた。だが、ウルスラの場合は四位までしか格をつけていない、とムーサは言った。彼らはずば抜けた実力の持ち主で、それ以下と雲泥の差があるのだと。
 ちなみに、四の剣は、第四位の剣が得意の者、という意味になる。
 あの木の下に彼がいたのは偶然ではなく、何かを察知しての事だろう。啼がいた気配か、結界の綻びか、それはわからない。
「彼とは面識が?」
 ムーサは頷く。
「四の剣は、二の斧と並んで従者を務めることが多い。それに——」
「それに?」
 言い淀むのは彼らしくない気がして、啼は思わず先を促した。少しの間をおいて、ムーサは無表情に続ける。
「妹君が館を訪れる時、あの男を伴うことが多い」
 彼が言おうとしていた事だとは思えなかったが、啼は深く追及しなかった。何かトラブルを抱えているのかも知れないが、それは彼自身の問題だ。今の状況で、啼が興味本位に聞き出す事でもない。
「二番目じゃなかったのは不幸中の幸い、なのかな」
 バックミラー越しに啼の顔を一瞥し、ムーサは曖昧な表情を浮かべる。
「妹君の部隊は特殊だ。二から四までの実力は同等と考えていい」
「なるほど。じゃあ、意地でも見つからないようにしないといけないね」
 その言葉に、横に座っていた少女——マリーが徐に口を開いた。
「ばかね。あなた、いいかげんなのよ。あんなところから入るなんて。もう見つかってるわ」
 啼はマリーを振り返る。マリーは、いい気味だとでも言わんばかりの表情で啼を見返した。大きな青い目に啼が映りこむ。
 彼女の機嫌を損ねないためにはどう返答すべきか考えたが、適当な言葉が浮かばなかった。
「そうなんだ」
 気の抜けた言葉に、少女はむっとする。反応が良くなかったらしい。申し訳ないような気がしつつも、啼は苦笑した。マリーは益々口を尖らせ、啼を睨みつけた。
「伯爵に気に入られるなんて、よほど意地悪なのね。だって、伯爵が気に入る相手はみんな意地の悪い人だもの」
 ザークシーズは彼を嫌う相手をいちいち構っているのだろうか。確かにそちら側に立てば意地悪になるだろうが、と思いつつ、啼は改めてうんざりした気分になった。
 それにしても、彼女にそこまで非難される覚えはなかった。啼は静かに問いかけた。
  「おれ、君に意地悪したかな」
 柔らかい口調が却ってマリーのカンに障ったのか、彼女は眉間に皺を寄せる。
「失礼しちゃう。全然分かってないのね。……あなた、女心が分からないって言われるでしょう」
 背伸びしたような言葉に、啼は再び苦笑した。
「思い当たる」
 やっぱりね、という表情でマリーは啼を見上げた。その表情は少女というより、啼と同世代の女が見せるものに近い気がした。
「思わせぶりな癖に自分勝手にそっぽを向く。あなたみたいな男って、結局自分のことしか見てないのよね。優しそうなだけで、本当はぜんぜん優しくないし。こっちがわかってないとでも思ってるのかしら。本当にうんざりするわ」
 無邪気な様子とはほど遠い発言に、啼は少し顔を顰めた。ザークシーズの「娘」が外見に見合う年齢とは考えられないが、この姿で言われるとさすがに悪趣味な気がして、啼は黙っていた。
 もっとも、黙ったのは彼女の指摘が的外れでないことも原因なのだが。
 その様子に、マリーは不敵な笑みを浮かべた。
「あなたって、全然わかってないのね」
 窓の外に目をやり、啼は溜息混じりに言った。
「君が子供じゃないことはわかったよ」
 いいえ、と首を振る。視界の隅で長い、金の糸のような髪が揺れた。
「伯爵の子供って、そんなに外れてないと思うのよ」
 彼女の語る内容を完全に理解できるわけではない。しかし、啼は何か思いついたのか、マリーに向き直ると改めて彼女の全身を見た。薄暗い中でも透き通るように白い肌、発光するように輝く髪。華奢な指先の爪の整った形……足元は暗く、また狼の姿でよく確認できないが、それでもすべてが不自然なまでに整っていることがわかる。左右対称と言っても良いほどに。まるで、精巧に作られた人形のようだ。
 人形。それは、この少女を形容するのにとてもしっくりくる言葉だった。
 整いすぎた少女の体は容器(いれもの)で、中身は形のない何か。ザークシーズという魔術師なら、そういうものを生み出すことも可能かもしれない。
「もう会ってるのに。ずっと気付かないなんて、本当にひどいわ」
 その言葉を聞いた瞬間、啼は思わず「ああ」と声を漏らした。
「だから君に見覚えがあったのか」
 彼女が住むのは夢の世界。彼女の操る夢はあらゆる感覚が揃っている。
「私、結構いい感じだったでしょう? なのに寝ちゃうって……本当に、相当なものよ」
 夢が夢だという確信が持てなかったのも当然だった。あれは、もうひとつの現実だ。
「……すごく眠かったんだよ」
 啼の小さな呟きをマリーは聞き逃さなかった。
「あなたのそういうところが大嫌いよ」
 言葉とは裏腹に、彼女の目は笑っていた。
「伯爵の言いつけだからね、あなたのこと案内してあげるわ」
「ありがとう。よろしく、マリー」
 そう言って啼が視線を上げると、バックミラー越しに一瞬、ムーサと目があった。前にも似たような表情を見た気がするが、何が意外なのか啼にはわからなかった。

 都心部へと近付くにつれて車の数は増えたが、やはり普段より少ない。宵の口だが歩道をゆく人影はまばらで、闇は普段より濃いように感じられた。
 若者に人気の繁華街と平行する目抜き通りを抜け、高架を潜る。再び大通りに出ると、大きな四つ角の交差点があった。この場所では既に交通量も少なく、店が閉店した後と言うこともあって人影もほとんどなかった。街路樹の影ばかりが目立つ。
 信号が変わると車は住宅街へ続く方向へと曲がった。街路樹がなくなり、背の高い塀が並ぶ。高級住宅街として知られた場所で、繁華街の側にありながら、街の喧噪は聞こえてこない。このあたりは住人に外国人が多いため、景観も大分異なっていた。
 車は細い路地の前で止まった。車が入れない道幅ではないが、歩く方が都合いい。
 後部座席の扉が開き、白い傘が開いた。先に出たのは紐に繋がれた狼で、次に出てきたのは少女。しかし、その後に続くはずの啼の姿は見当たらなかった。
 扉を閉めると、マリーは狼と共に歩き出す。少女の行き先を確認することなく、車は走り去っていった。一時間ほどしたら、この場所へ戻ってくることになっている。
 マリーの姿が路地に消えて暫くしてから、路地の入り口には黒い傘の男が立っていた。庭園の脇にいた男——ウルスラ配下・四の剣だ。
 男は自分が追ってきた気配を確認するように周囲を見回した。細い路地と、先程まで車が止まっていた辺りを交互に見る。小さく息を吐いて、路地へと歩き出した。


後 編

 街は静まりかえっていた。家々には明かりが灯っているが、その光はよそよそしい。
 ぽつぽつと設置された街灯の下、マリーは白い傘を差し、散歩でもするような足取りで道を進む。紐に繋がれた獣が傍らを歩くので、散歩と言えないこともない。だが、少女が連れて歩くにはいささか不釣り合いな「犬」だ。
 彼女は案内役のはずだが、相変わらず案内されるべき啼の姿は見えず、周囲には気配すらなかった。それでも、マリーはどこかを目指し、歩き続けた。
 この路地は、入り口は狭いがしばらく進むと道幅が二車線分の広さになる。しかし、ゆるやかに蛇行した道はあまり見通しが良いとは言えず、等間隔で設置された光量の強い街灯もあまり役立っているようには思えない。それは街灯を遮るように設置された街路樹のせいかもしれなかった。木々は街の闇を増幅している。明るく落ち着いた街並みのはずだが、奇妙な静けさと暗さが混在していた。
 傾斜の少ない坂道を上りきった道の脇には、ちょっとした公園があった。入り口脇に設置された公衆電話の光を一瞥し、マリーは気紛れのようにその中へと入っていく。狼は少女の意志を察し、前を進んだ。
 道から横に伸びた公園は上から見ると長方形のような形をしている。ちょっとした、というには結構な広さだったが、特に遊具らしいものは見当たらない。公園、と言うより緑道という方が近いかもしれない。脇にはベンチが設えられ、天気の良い昼間であれば、なかなか気持ちの良い場所のように思われた。
 木々の間から背の高い街灯の光が降り注いでいたが、これもまた成長しすぎた緑に遮られている。緑と黒い鉄柵に囲まれた公園の中は、一層暗く思えた。
 公園の中程で、大きな水たまりを避けようとマリーが歩を止めた時だった。
 背後から、男の声が響いた。
「こんばんは」
 それは、異国の言葉だった。
「こんな雨の夜に犬の散歩なんて、危ないよ」
 妙に間延びした、暢気な口調。体を震わせ、マリーは警戒した様子でゆっくりと振り返る。
 肩越しに見えたのは、彼女を追ってきた例の男——ウルスラ配下・四の剣だった。
 彼女が言った通り、啼が結界を越えたあの場で、彼は待機していた。そして、いかなる手段なのか彼女にはわからないが、確実に追ってきた。
 マリーが分かる範囲で、彼は一人だった。そして、それは間違っていないだろう。この場所は、彼らの部隊が自由に闊歩できる場所ではない。
 ひょろりとした風貌、背が高く、なんとなく薄っぺらい印象のする男だった。左手で傘の柄を持ち、どこか億劫そうな様子で黒い傘を手に立っている。外鬼特有の健康的とは言い難い肌色は黒い服装のせいで一層白く見えた。
 無造作に散らばった髪型は、彼の適当な性格を表しているようにも思える。整った顔立ちだが、美しいという形容は彼にそぐわなかった。薄い唇が小さな笑みを作る。
 男が足を踏み出そうとした時、狼はさっとマリーの前に出、牽制の姿勢をとった。そして、一度だけ低く唸る。それを見た男が近付いてくることはなかったが、マリーを見て微笑んだ。
「想像していたよりずっとかわいいね、君」
 場にそぐわぬ頓狂な台詞に、マリーは何の反応も示さず、ただ立ちすくんでいた。
「……言葉、通じてる?」
 男の態度は、女に接する時のそれに変わっていた。
 マリーは少しの間をおき、ええ、と頷いた。男は相変わらず気怠そうな調子だったが、「そう、良かった」と笑った。
「大変だね、君も。こんな日に伯爵のおつかい?」
 体を四の剣に向けたマリーは何も言わなかった。青い大きな目が一度、瞬きする。
「俺も大変だったよ。あのまま見過ごしていたら、うちのボスに酷い目に遭わされるところだった」
 何が面白いのか、喉の奥で笑っている。不快な音だった。マリーは再び瞬きすると、今度は睨むように男を見た。傘を持つ指先が白んでいる。
「あなたのことなんて知らないわ」
 彼女の使った言葉も異国のものだ。男——四の剣は、もっともだ、と頷き、白い歯を見せた。
「結構あの館には行ってるけど、君と会うのは今が初めてだ。でもね、わかるんだよ。君はあの館特有のにおいがするし、それに、いかにも伯爵の趣味って感じだ」
「におい、だなんて」
 マリーは眉を顰め、後退りした。かかとが水たまりに入り、波紋が広がる。少女は怯えているが、誘っているようでもあった。狼は更に姿勢を低くする。
「そりゃ、そのイヌには敵わないよ。でも俺、ハナが効くんだ」
 傘を少し持ち上げ、軽い口調で言った。冗談のつもりかもしれないが、マリーの表情はますます強ばった。四の剣は肩を竦め、「ところで君は、自分がなんて呼ばれているか知ってる?」と訊ねた。
 答えを聞く前に、四の剣はゆっくりと右手を腰の後ろへ回す。かつ、という小さな音のあと、彼の手には鈍い銀色の、剣の柄のような物が握られていた。
「いいえ。知るわけないじゃない」
 一連の行動を見守りながら、マリーは小さく答えた。
 四の剣は握った右手を垂直にして、僅かに振る。瞬間、格納されていた剣先が現れた。三つに分割された刀身がすらりと下まで伸び、刀身の細い剣となった。携帯用にと彼が作らせた剣の一つだ。
 マリーの返答に、残念だ、とでも言うように小さく息を付く。
「人形娘。かわいいお人形さんみたいだって——」
 彼はマリーを見つめたまま、一度剣を振った。水滴が飛び散る。闇の中で銀の刃が光った。
 瞬間、狼はマリーの元を離れ、四の剣に向かっていた。繋がれた紐は特殊な金具で留められており、金具はすぐに外れるようになっていた。狼は速く、流石の四の剣も右手を振り下ろす事は出来なかったが、剣先の動きは狼への牽制になった。反応した狼の動きに合わせ、四の剣は左手の傘を狼の真っ正面に突きだした。
 大きく跳躍して傘を避けた狼が着地し、振り返った時にはマリーの背後に四の剣はいた。それはマリーが逃げ出す寸前の事だった。マリーの白い傘は水たまりに落ちる。彼は空いた手でマリーを捉え、刀身を首筋に当てた。
 狼は低い声で唸っているが、それ以上近付こうとはしなかった。マリーの身を案じてか、攻撃する気配はなかった。
 黒い傘はひっくり返り、狼の手前で雨を受け止めている。ぼつぼつという音が妙に大きく響く。
「いくつか教えてくれないか」
 四の剣は静かに言った。救いを求めるように狼を見ていたマリーは、振り返ることも出来ず、震えながら小さく頷いた。
「……動物や、女子供に手を出すなんて。あなた、最低ね」
「そういうことは、自分で言うもんじゃないよ」
 震えながらも自分を非難するマリーの発言に、四の剣は苦笑する。
「ここまで来てるんだから隠しようもないよね。あの伯爵が、『冥王』にどんな用があるの?」
 首に当てられた刃は冷たく、角度を変えればいつでもマリーの首を斬ることが出来た。
 マリーは怯え、震える声で「内容までは知らないわ。私は行くように言われただけだもの」と答えた。
 いくら脅されているとはいえ、行き先を否定せず、やけにあっさりと答えた彼女は明らかに不自然だった。背後から抱え込み、四の剣はその顔を見下ろした。怯えた顔は嘘を言っているようには見えないが、彼女が子供でも少女でもないなら、この程度は演技出来るだろう。
「協定に関係あるんじゃないの?」
「それも……知らないの、本当にわからない……」
 茶番だな。四の剣は彼女から少し興味が削がれたのか、軽く眉を動かした。
 追及せずとも、彼女がここに来たというだけで十分な回答になっている。
 彼は質問を変えた。
「一緒にいた、もうひとつの気配は『何』だった?」
 それは奇異な質問だった。マリーは少し怪訝そうな様子で
「……イヌのことでなく? わたしはそれしか連れてないわ」
 四の剣は、否、と首を振る。彼としては、こちらのほうが気になっている事だった。
「そのイヌじゃない。……結界を越えたやつと同じかな。あそこもそうだった、気配はあるけど掴み所がない」
「車を追って来たなら、誰が一緒だったか見ているんでしょ」
 マリーは半ば諦めたように言ったが、四の剣は再び首を振る。
「ああ、狼使いの彼ならよく知ってるが、あれとは違う」
 ザークシーズの館で知り合った、という事だろうか。微妙な口調に違和感を覚え、マリーは思わず反応した。
「よく知っているの?」
 その言葉に、四の剣は小さく頷く。
「古い知り合いだ。彼の妹もね」
 小さな呟きから、マリーの脳裏に、車内で交わされていた啼とムーサの会話が蘇った。面白いことを聞いた、という表情でマリーはうっすらと笑みを浮かべる。ムーサの過去は、彼女も知らないからだ。
「楽しいかい」
 男の声に、マリーは瞬時に現実に引き戻された。
「そうね、意外だったわ」
 少女の声は先程よりも落ち着いているが、四の剣、そして光る刃を畏れていた。四の剣はゆっくりとマリーの耳元に顔を寄せる。
「じゃあ、教えて。何がいた?」
「——あなた、さっきハナが効くって言ってたわよね。わからないの?」
 風が吹き、揺れた葉が大粒の雫を落とす。それは四の剣の上に降り注ぎ、彼は鬱陶しげに首を振った。彼は雨が嫌いらしい。少し苛立った様子で、早口に言った。
「ごく普通に考えて、郷者。それは俺じゃなくてもわかるだろ。俺が言いたいのはそういう事じゃない」
 なぜ、素直に郷のしのびだと思えないのか、彼自身にもよくわからなかった。ただ、彼の勘、嗅覚がそう訴えている。しのびだと思いながらも、どこか違和感を感じているのだ。郷のしのびなら、何度か対峙したことがある。しかし、それとも何か違う気がする。
 あの、殺された郷のしのび——重、彼は郷のしのびらしい気配を持っていた。郷のしのびとしての存在感。
「……わたし、あなたの言っている事、わからないわ」
 マリーの言葉に偽りはないように思えた。思い過ごしかもしれない。それ以上に、伯爵によって気配や何かを攪乱されている可能性は高いのだ。伯爵が使役する力は、四の剣の理解を超えている。
「そう。残念だよ」
 溜息をついて、四の剣は少女に最後の質問する。
「最後にもうひとつ。ねえ、どうせ君、死なないんだろう?」
 軽く吐き出された言葉に、少女は驚いて体を震わせた。首筋に刃が食い込む。
 少しの間をおいて、マリーはか細く震える声を出した。
「もし、あなたが私に何かするなら——」
 少女の呼吸が荒くなり、震えが激しくなる。畏れている事は分かったが、四の剣は憐れみなど感じなかった。
「そのイヌがかかってくるって? そうなったら逃げるよ。俺、イヌには手出ししないから」
 確かに、狼に向けて剣を振るう事は無かった。四の剣は最初から狼を傷つけるつもりがないのだろう。
 そのことに思い当たったマリーは、震えながらも僅かに怒りを滲ませた。
「わたしがこれより劣るっていうの? 失礼しちゃう」
「俺、それの飼い主になるべく嫌われたくないんだ」
「伯爵?」マリーの質問に、四の剣は笑みを浮かべ、いや、と首を振った。「伯爵は、どうでもいい。どうせ、彼もそう思ってるんだろ?」
「そうよ。あのひとは、あなたみたいな下衆な戦士なんか嫌いだもの。ええ、わたしもよ」
 挑発的に本心を語った。そんな彼女の様子に、四の剣は自分が愉快になっている事に気が付く。
「俺も、君がどうなろうと、気にしない」
 彼の言葉もまた本心だった。
 これ以上の問答は無駄だ。四の剣は一呼吸おいて、マリーに言った。
「つまり、『冥王』に直接聞いた方が早いって事だね。まったく、面倒が増えるな」
 肩を掴む手の力が弛み、解放されると分かったマリーは体をびくっと震わせる。男の腕から抜け出そうとした、その瞬間。
 四の剣の右腕が振られ、刃は細く白い首に埋まった。マリーは声を出す事もなく、手を首元にやりながらゆっくり、前に倒れかかっていく。四の剣は無言で剣を引いた。首を落とすためにはもっと勢いが必要だったし、いくら子供とはいえ、骨を断つのは面倒だから、斬るだけに留まった。それでも、十分な損傷の筈だった。
 これが、人やそれに類するものであれば、勢いよく出血するだろう。だが、それは起こらなかった。人でない事はわかっていたが、案の定の展開に四の剣は溜息をつく。
 用がないなら、処分した方が早い。それは、兄妹の確執に便乗した、彼の勝手な判断だった。
 四の剣は、魔術師といった類のものを、否定こそしないが嫌悪していた。少女に恨みはなかったが、存在自体が気にくわないのも事実だ。
 少女の体が膝をついたとき、青い硝子のような目が空を見上げる。四の剣が気付いたときは既に遅かった。首の切り口から、無臭の黒い煙が溢れ出す。目を見開いた少女と目が合った瞬間、煙は勢いよく四の剣を襲った。
 吹き出す黒い煙は、この少女を「少女」として動かす「何か」であった。首の切り口は広がり、とうとう少女の首を一周した。同時に首と胴体が不自然に離れていく。首には傷口も肉の色もなく、筒状になっている。覗き見える体の中は真っ黒で、がらんどうになっているようだった。
 重さに耐えきれず、首から頭部が転がって、鈍い音を立てて水たまりに落ちた。狼は、煙に襲われ激しく咳き込む四の剣を後目に、水たまりに浮かんだ長い髪を鼻先で器用にまとめて銜える。少女の頭部は狼が持ち去ろうとしていたが、四の剣にはどうすることも出来なかった。
 咳き込む四の剣の傍らで、首のない少女の体は水たまりに倒れた。白いドレスが水たまりに浸って、灰色に染まっていく。華奢な少女の体は、四の剣の目の前で何も感じない入れ物に変容していた。
 そこに落ちていたのは、小さなセルロイドの人形——の、体だけだ。子供が遊ぶ玩具の人形。まるでそこに最初からあったように見えた。
 障気を吸わされた四の剣は、激しく咳き込んでいた。喉の奥が急激に乾き、呼吸が困難になる。これが一種の幻覚であろうことは分かったが、それでも体の違和感は消えなかった。彼は雨に打たれながら、水たまりの中に膝をついて咳き込み続けた。そのうち、口の中に血の味が広がっていることに気付く。いつの間にか、片方の鼻腔から血が流れていた。はたり、と落ちた血は水たまりの中、じわりと広がる。まるで何かの合図のようにも見えた。
 ここに至って、四の剣は初めて、人形娘の中身が何であるのか理解した。
 狼は公園の入り口の方へと向かっていたが、視線に気づいたのか足を止め、四の剣を振り返った。
 切り落とされた少女の頭部は、口すら動かない精巧な人形の頭部へと変わっていた。人間の子供と同じくらいの大きさだ。精巧に出来てはいるが、人形には変わりなかった。
 瞬きせぬ硝子玉の目の端に雨粒が溜まって、涙のように流れ落ちていく。
『ばかね、あなた。ひとがたをむりに壊すなんて。そういうことすると、呪われちゃうのよ』
 かつて外鬼も使っていた古の言語で、首だけのマリーは語った。その言語のほうが、より彼女本体の使う言葉に近いのだろう。
『血を流すなんて、あなたたちらしくないわ』
 先程までとは異なる、成人した女の声が響く。四の剣は傍らの人形の体と、頭を見比べる。
 外鬼は痛覚が鈍く、身体的な痛みに非常に強い。強靱な肉体を持つ彼らが「不死」と言われるのはそのためでもある。実際には不死というわけでもないのだが——。
 彼らは、決して痛みを感じないわけではない。だが、痛みに慣れないせいか、こうした事柄への対処が、あまり上手いとは言えなかった。もっとも、多少の幻術であれば、彼もこのような状態には陥らないだろうが。
「取り憑いて……殺そうっていうんじゃ、ないだろうね。ひどいな、君は……」  呼吸を整えながら、四の剣は人形の首を睨んだ。顔は無表情で瞬きひとつしなかったが、女の声は嬉しそうに続ける。
『殺すだなんて、そんな! 発想が野蛮ね、あなたたちと一緒にしないで頂戴。少し貰うだけよ。待っててね、わたし、あなたに会いに行くわ』
 恋人に聞かせるような言い方に、四の剣は露骨に嫌な顔をした。
 会話が終わったと了解したのか、狼はふいと体の向きを変える。そして、マリーが歩いてきた道を、大通り目指して勢いよく走り出した。

「なんで……俺が呪われなきゃならないんだ」
 水たまりに膝をついたまま狼を見送った四の剣は、忌々しげに呟くと、よろよろと立ち上がった。
 ずぶ濡れになった彼は、傍らに落ちていた剣を鞘に戻し、自分の傘に手を伸ばした。中には水が溜まって、中の水を出しても傘として利用するのは些か気が引ける。小さく溜息をつくと、傘を畳んだ。
 傘を小脇に、入り口脇に設置された公衆電話へと歩きながら、上着のポケットを探った。コインが何枚か入っている。
 電話の前で彼はコインを数枚取り出し、何処かへ電話をかけ始めた。二度のコールで電話を切り、再び同じ番号にダイヤルする。二度のコールで受話器が上がった。
 四の剣は挨拶するわけでもなく、億劫そうな様子で話し出す。
「どうにかならないんですか、あなたたち兄妹。とんだとばっちりですよ」
 受話器の向こうでは、鼻で笑っている。
「何があった?」
 ハスキーな女の声が響く。回線のせいか、ノイズが混じっていた。
 落ち着き、傲慢にも思える様子で、女は訊ねた。四の剣は手短に伝える。
「狼を連れた人形娘と少し。で、首が落ちた」
「落としたんだろう? 馬鹿め」
 部下の失態が面白いのか、くつくつと笑っている。
 女は人形の中身が何であるか知っているようだった。そして、夢魔の呪いがどのようなものであるか、二人ともよく知っている。魅入られた者は精が尽きるまで「搾取」される——それが常だ。過去に、そういう者を何人か見たことがある。いずれも、現実には存在しない恋人を想いながら死んでいった。
 人形の首は、少し貰うだけ、と言っていた。命をとるつもりはないのだろう。しかし、嬉しいことではない。
「そういうことじゃないでしょう」
 鼻血を拭いながら、うんざりした表情で続ける。「当分仕事が出来なくなったら、あなたの兄上の責任ですよ」
 女はふん、と鼻を鳴らした。
「まさか、本当にただの人形だと思っていたわけでもあるまい。不用心なのはお前だ。だからお前は四なんだよ」
 夢魔が司る世界は陰獣である彼ら外鬼にも不可侵の領域だ。肉体を持たぬ者達を御するのは魔術師と司祭——あるいは。
 四の剣は「俺、信心深くないから」と溜息をついた。
「まぁいい。それで?」
「『冥王』の邸宅に向かっているようです」
 受話器の向こうから舌打ちが響いた。
「誰が?」
「さあ」
 わからない、という口調で四の剣は答えた。女は苛立ちを露わにする。
「それは、どういう意味だ」
「言葉通り。向こうでもお伝えしたでしょう。状況的には、たぶん郷のしのび」
「だろうな」
「でも、だとしたら、——かなり、変わってる」
 意味を掴みかね、相手は黙っていた。四の剣もそれ以上続けるのを辞めた。彼が感じた違和感は、伯爵によって人為的に造られた違和感かもしれないのだ。
「まあ、俺の気のせいで、あなたの兄上の仕業かもしれませんね。俺にわからないなら、そこの斧にもわからないはずだし」
 女はふんと言って、「わかった。お前は戻れ」と指示した。通話が終わると察して、四の剣は声を上げる。
「なんだ?」
「狼は?」
「……放っておけ。どうせ『家』に帰るだけだ」
 女は興味なく答え、四の剣は「それはよかった」と呟く。その言葉は女の神経に障ったらしい。
「馬鹿か、お前は」
 本気で呆れているようだが、四の剣は慣れた口振りで、いつもの台詞を繰り返した。
「あなたの命令には従ってる。だけど、俺の人生まで指図されるつもりはないですよ」
「勝手にしろ」
 その言葉を最後に、電話は切れた。
 受話器を置いて余ったコインを回収すると、四の剣は手にした傘に目を落とした。小さく溜息をついて、傘を開く。狼と同様に、彼も来た道を引き返していった。

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