四章

四章

 ザークシーズが客間を出た頃、外鬼の戦士長たちの会合も終了した。
 戦士長は曲者揃いで、気性の荒い者もいる。だが会合の時は中世の騎士さながらに振る舞うのだった。それはウルスラといえども同様で、彼女はいかに詰まらない会合であっても文句一つ言わず参加していた。会合には、彼らが決して逆らうことが出来ず、かつ、最も尊敬する者が出席するからだ。
 会合の行われる夜、誰も報せなくとも、彼はひとりの侍従を連れて現れた。肩の下まで伸びた髪は白く、皮膚に刻まれた皺の数は彼が生きてきた年月の長さを物語る。蒼い双眸から考えを読みとることは出来ない。彼は部屋の隅に座って戦士長たちを見守っているだけだが、それで充分だった。
 定期の会合といっても、内容は近況の報告がほとんどで、特別な議題はなかった。それでも、混血種と重の件については少しだけ触れられた。議長を務める戦士長が改めて事のあらましを伝える。ザークシーズの名が挙がったとき、ウルスラは僅かに眉を顰めた。
 議長はこの件について、政治的な意味合いで「慎重に行動するよう」各に促した。
 誰も発言しなかったが、背後で見守る彼は小さな笑みを作った。その表情は、丁度向かい側にいたウルスラの視界に入る。彼女は目線だけ彼の方へ向けると、それに気付いた彼も片目を瞑って応えた。声は発しないが、「慎重にね」と口を動かしている。彼は愉快そうに見えた。
 それが合図だったかのように、会合は締めくくりに入っていた。彼は立ち上がり、侍従と共に退室した。それは実質的な会合の終了を意味している。
 その時、ウルスラはひとつの思いを抱いていた。混血種の件は彼女にとって唾棄すべき現実であったが、重の死によって何かが終わったような気がしていた。正確には彼女の「気が済んだ」だけだったが、それで十分な筈だった。
 自分たち戦士長には協定に関与する権利がない。彼女自身にとってはどうでも良かったが、協定の重要さは理解している。血族のために守らねばならぬ事柄だと。
 だが、と彼女は思う。
 ——まあ、何事にも事故はつきものだ。
 ザークシーズとウルスラは血を分けた兄妹だが、二人の確執は救いようがないほど深い。
 それでも、彼らの性質はとてもよく似ている。

 窓のない部屋の奧には、寝室があった。
 白く四角い部屋。片隅には大きなベッドがひとつあり、飴色のカバーがかかっていた。その脇の棚と椅子も白が基調で、例の百合の紋章が一部に施されている。淡い光を放つベッド脇のランプシェードはやはり百合の形をしていた。
 寝室にも窓はなく、音は壁に染みるように消える。
「君が起きる頃にはムーサをここに寄越すよ、一緒に食事でもしよう。遅い昼食になるだろうけど、構わないよね?」
 寝室で休むよう指示して、ザークシーズは姿を消した。
 外からは見えず、廊下からはどの扉がこの客間の入り口かわからない。そのような術をかけてあるのだろう。この部屋に案内したのは、彼の妹や他の外鬼から啼を守る為ではなく、啼を拘束する為に他ならない。
 「館の中では従え」とザークシーズは言い、啼は渋々承諾した。
 全く気にくわない相手だが、啼はどこかで彼を信用している。彼は交わした約束を決して破らないし、戦闘的な意味合いでの不意打ちは決してしなかった。それは彼の美学ではなく、単に玩具としての啼を大切にしている故の行動なのだが。
 啼はそのことを承知していた。気に入らないが、事実だ。
 一人になった啼は暫くの間、ソファの背に手を掛けて思案していたが、視線を上げると寝室へ向かった。扉を閉め、大きく息を吐くとベッドの端に腰を下ろす。
 啼は指示通り休むことにした。勿論、これが忍務の最中であれば有り得ない事なのだが。
 郷を出てから十日近く経ったが、啼はその間、ろくに眠っていなかった。外鬼の情報収集は啼でも苦労した。外鬼は他の陰獣と小競り合いを繰り返しており、巻き込まれれば命にも関わるだろう。危ない場面もあったが、結果的には何事もなくこの場所にいる。
 五条がこの件を啼に頼んだのは、なにも友人だから、いう理由だけではなかった。啼でなければ務まらないと判断したからだ。
 啼は、そう評価されるだけのことはしている。だが、彼自身は決して自分を認めようとしない。
 同じ伍隊のしのびであれば、大抵の事は務まる。自分のかわりはいくらでもいる——郷者の持つ数字はその象徴。重の一〇も啼の七九も大差ない。背負う数字に優劣はなく、その重みは命の軽さを表す。郷で育ち、郷者として生きていく事に一切の疑問はない。死ぬことも。
 彼の頭には常にその想いがあった。間違ってないだろうが、些か極端と言えた。
 啼には、他の誰もが自分よりもずっと尊い存在のような感覚がある。彼は目立つ事はなるべく避けようとするし、時折、自分の存在を空気のように消してしまいたいと感じていた。五条が指摘した通り、啼は影に隠れるためなら、自覚しなくとも自分を制御している。
 ——……重はとても優れていて、おれとは比較にならない。おれが一番分かっている。
 ならば、なぜ重が「役目を果たした」と感じるのか。
 装束を解いてベッドに横たわった啼は、薄闇の中で考える事を辞めた。眠れない時でも眠る為の方法は知っている。
 今の啼には、深い眠りが必要だった。

 啼は夢を見た。断片的な記憶しか残らず、夢の詳細は覚えていない。
 目覚めは爽やかとは言えなかったが、不快でもなかった。寝起きでも頭はしっかりしている。それまでの疲れを考えれば十分すぎるほどの回復なのだが、啼は、眠ったことを少しだけ後悔した。
 夢が、夢であった、という自信が持てなかった。ここがザークシーズの館でなければ、いかに現実的な夢であっても、素直に夢だと言えただろうが——。
 外鬼すべてがザークシーズのように特別な「術」を使えるわけではない。魔導に精通し、魔術を使う者は魔術師であり、陰獣の使う術とは発生も理も異なる。陰獣でありながら魔導を極めようとするザークシーズは稀な存在だった。
 それは、彼が気儘に振る舞っても許される最大の理由と思われる。その風体に似つかわしくないが、彼は恐るべき種族の中でも、とりわけ危険なけものだった。

 啼が半身を起こしたとき、扉の向こう側で小さな物音がした。館の中ですらなるべく気配を殺して歩く様子から、例の狼使い・ムーサだとわかる。
「すごい勘だな」
 彼が扉を叩く前に、啼は呼びかけた。「ついさっき起きたばかりなのに」
 その声に応じるように扉が開いた。黒髪、銀の瞳。昨晩啼が断った着替え一式を手に、夜と同じ姿のムーサが静かに現れた。
「支度しろ。伯爵が待っている」
 秘書や執事としてなら、この口調は失格だろうな。啼はそんな事を考えて苦笑した。
「……やっぱり、そっちじゃないとだめなのか」
 ムーサは無言で頷いた。啼は立ち上がる。
「事情はともかく、きみはあいつのそういう部分によく付き合えるね」
 うんざりした様子で言って、ムーサから着替えを受け取った。ムーサは表情ひとつ変えず、静かに「慣れだ」と言った。
「なるほど。おれには無理だな」
 隣室の扉へと歩くムーサの背中から目を移し、啼は装束を見る。だが、諦めたように指定の服に着替え始めた。

 身支度を整えた啼が案内されたのは、一階の奧にある食堂だった。といっても会食用の大きな部屋ではなく、こぢんまりとしたものだ。ここも他の部屋と同じく白いのだが、部屋の中央を占拠するテーブルや椅子は焦茶色の年代物で、屋敷に合わせて作られたものではなかった。これらも華美な装飾はなく、寧ろ無骨な雰囲気すらある。今の主人が異国から持ち込んだものだろう。
 部屋の大きな窓からは庭がよく見えるが、降りしきる雨で景色は滲んでいた。室内は薄ぼんやりとして、明るいとは言い難い。すべてが蒼い影を作っている。
 ザークシーズは彼の定位置らしい窓に一番近い場所で、庭を向いて座っていた。細身の黒いズボンと白いシャツ、その上に羽織った黒い薄手のガウン。服のせいか昨夜よりも更に、病人のように見えた。この男も眠るのだろうか——啼はふと思った。
「しのびのくせに、あんなによく眠るなんて。なんだかんだいっても、僕を信用しているところが、君の良さだな」
 窓の外を見たままザークシーズは言った。昨夜と変わらない、愉しそうな、神経に障る声。
「やっぱり似合うじゃないか、そういう格好の方が」
 そう言うと立ち上がり、振り返って啼を眺めた。「従順なところも良さかな」
 啼は憮然とした表情で、ムーサに促されるままザークシーズの向かい側に着席する。ムーサは主人の側にまわり、椅子の向きを直す。主人が落ち着いたと判断すると、一礼して退室した。
 座り直したザークシーズは、改めて啼に微笑みかけた。
「僕はこの館に、自分の気に入ったものしか置かないようにしている。君がここで働いてくれれば、僕としては最高なんだが」
「有り得ない」
 不快感を隠さない表情で啼は即答した。ザークシーズは喉の奥で笑っている。
 その後、彼らはザークシーズの「いつもどおり」の昼食を採った。給仕もムーサが行っていて、彼は用が済むとすぐにいなくなる。食事中、特に会話があるわけではないが、ザークシーズは相変わらず楽しそうにしていた。
 病人のような風体をしたこの男が、想像以上によく食べるので啼は少し驚いた。啼の視線に気付いたザークシーズは、「僕はあらゆる食事を愉しむようにしているんだよ」と笑う。
 食事が終わる頃、彼はこう言った。
「僕らは、基本的に食欲旺盛なんだ。根元的な欲求に従順に出来てる」
 外鬼の貪欲さはよく知っている。啼は呆れたように小さく息を付いたが、一向に気にする様子はない。腹立たしいまでの笑顔で続ける。
「啼、君はもっと人生を愉しんだ方がいい。……残念だよ。啼、君が制御出来るのか、しのびが皆そうなのか」
 唐突な言葉に、啼は顔を上げた。
 ザークシーズは悪びれた様子もなく、ただ笑っている。
「僕なりに君をもてなしたかったんだが。不満だったかな」
 彼が外鬼の中でも特別なのは、身分や血統ではない。魔術を使えるということ。持て余す長い時間を、魔導の探究に費やしている。啼が見た夢が、夢であったと思えなかったのはそのせいだ。
 夢だったのかも知れない。だが、操作していたのはこの男だ。
「悪趣味だな」
 吐き捨てるように啼は言った。
「そんなことないだろう。よくあることだよ、もてなしのひとつじゃないか。まあ、君には眠る方が大事だったみたいだけど」
「当たり前だ。必要ない」
「つまらないことを言うね。興味ない訳じゃないだろう」
「興味のない相手とする気はない」
 啼のはっきりした物言いに、ザークシーズは溜息をつく。
「窮屈な考え方だな」半ば呆れたようにザークシーズは言った。寧ろ、呆れ返っているのは啼の方なのだが。
「夢の中くらい、君はもう少し自由に振る舞っていいと思うんだけど」
 暢気な口調に苛立ちが募るが、この館、彼の元にいるだけで、不愉快に巻き込まれる事は充分承知していた。眠った自分が悪いのだ。
 耐え難い事実だが、この男しか頼る相手はいない。
 腹立たしい気持ちを抑え、啼は深く息を吐いた。

 その後。
 「紹介したい人物がいる」と言われて啼が連れてこられたのは、一階、食堂の反対側に位置する、ザークシーズが使っている書斎のひとつだった。人と面会するための、表向きの書斎という雰囲気だった。それでも壁面に設えられた書棚一面の本はどれも古く、読み込んだ形跡がある。
 書斎の奧、窓際には白い服を着た少女が立っていた。歳は十二、三というところか。長い金の髪、白い肌。どこかの令嬢といっても差し支えない雰囲気だった。
 外鬼だろうか。初めて見るはずだが、啼はどこかで会った事があるような気がした。
 雨の降り続く庭を眺める青い目が、不意に啼に向けられる。目を瞬くと長い睫が蒼い影を落とした。冷ややかな視線。端正な顔立ちはザークシーズと似ている気がした。彼女はとても整った顔立ちをしていたが、そのせいか、どこか人形のようにも見える。
「マリー」
 啼の背後からザークシーズが声を掛けた。
 その瞬間、少女の表情が変わった。花のような笑みを浮かべ、歩み寄るザークシーズに抱きつく。子供らしい無邪気な振る舞いだが、啼は妙な違和感を覚えた。
「伯爵、遅いじゃない」
 拗ねたような口調。少女は、ザークシーズ同様、流暢にこの国の言葉を使った。
「済まないね。でも、そんなに待ってないだろう」
 胸のあたりにある小さな頭に手を置いて、ザークシーズは静かに言った。「さあ、きちんと挨拶するんだ」
 少女はザークシーズから手を放し、啼を振り返った。少し不機嫌そうな、微妙な面持ちで少女は一礼する。仕草は優雅だが、どこか不満そうだ。そうして、すぐにザークシーズの背後に回った。
 少女の様子に肩を竦め、ザークシーズは小さな溜息をついた。
「マリー、僕の娘だよ。といっても本当の意味では血の繋がりはないし、僕らの種族でもない。けものでもないよ」
 そう言って浮かべた笑顔には裏があった。
「……それに、人でもないんだろう」啼は感じたままを口にする。
 外見、口調、仕草。少女として完璧だが、人としてどこか不完全に思える。完璧すぎるが故に。
 啼の勘は当たっていた。ザークシーズはにっこりと微笑み、 「やはり君には分かってしまうかな。まあいい、僕の娘ということで了承してくれ」
 と言った。
 深く追及する気もないので、啼は黙って先を促す。了解したように、ザークシーズは背後の少女を一瞥した。少女はザークシーズの腕を掴んだまま、伺うように啼を見ている。
「端的に、だったね」
 昨晩、啼が繰り返した言葉だ。啼は頷く。
 ザークシーズは少女を傍らに引き寄せ、華奢な肩に手を回す。黒いガウンの中で、少女の白い服と肌が浮き上がった。
「彼女が、君を案内する。啼、マリーをよろしく」

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